2014年10月7日火曜日

人生記 2


誤った使命感 

離婚して三年の月日が流れていました。

一人になっても 父や母の庇護のもとにいた若き日に戻れるわけではないそんな思いをひしひしと感じていた頃です。

そのころ私は公文事務局で働いていたとし子さんというご主人をなくされた女性と親しくなり、独り者同士よく食事などに一緒に出かけました。      

ある日、私たちはシドニー湾セーリングの体験という広告を見て参加しました。 

すでにお話したようにオーストラリアでは裕福な人は自家用のモーターボートやセイリングボートでオーストラリアマリンライフを楽しむのですが、このように持たざるものでもそれを体験できる企画があるのです。

青空の下、広い海をすべるように進むセイリングの旅は格別でした。 モーターの音がないので波の音が聞こえ、手を伸ばせば海水に触れることができるのです。 船を海岸につけて持ち寄りのランチを食べ ビーチでボール遊びをしたり、まさに楽しいことの好きなOZのライフスタイルです。

私はそこでこれまでのライフで接することのなかった人たちに出会いました。 それはワーキングクラス(Labourer)の人です。 

実はその頃 私は、人間というのは持てるもの(地位、名誉、学歴、幸福、道徳観にいたるまで)の分だけ高慢になるものだとシニカルに考えるようになっていました。 少し心がひねくれていたのでしょう。

日焼けした真っ黒な顔と暖かいハート以外にさして持てるもののない人たち。 自分自身が既成社会の価値観からはみ出して寂しい思いをすることがあった私は、彼らから励ましと希望と力をもらったのです。

彼らはこれまで私が過ごしたオーストラリアライフでは出会うことのなかった人たちでした.

まず 言葉が違うのです。 私はオーストラリアに来て初めてスラングやスウェヤーワードを聞きました。

彼らのよく使う言葉の中にBull shitという言葉があります。 ダイレクトには牛の糞という意味なのですが、噓、虚偽、虚栄、虚飾という意味にもなります。

私は、彼らはつまり虚飾や虚栄や見栄のない世界と感じました。

ちょうどその頃、長兄の娘、純子ちゃんが日本からワーキングホリデービザで来濠していました。 私は純子ちゃんと一緒に彼らの仲間に入りました。

私はオーストラリアの強い紫外線を避けるため、大きなつばの帽子をかぶってサングラスをかけていましたが、彼らは帽子を取りなさい、サングラスを取りなさい、太陽を浴びようといって老化を気にしてびくびくしている私に言いました。 ずっとうつむいて歩いていた私に顔を上げるよう教えてくれました。

オーストラリアでは知識階級の中で煙草を吸う人は少ないです。 愛煙家の兄は知的労働者がタバコを吸わなくなった国は滅びると言っていましたが、ここでは知識階級は本当に吸いません。 しかしこのレーバーラーズ仲間は煙の中で生きているようなものでした。そしてその煙にはしばしばマリワナが混入するのです。

そんな危険な世界に私達は飛び込んだのです。 今から考えるとよくそんな危険を冒したものだと思いますが、本当に少しも怖いとは思わなかったし、実際ちっとも怖い人たちではありませんでした。

彼らの中にはマリワナをボンベで吸っている人もいました。 ボンベにはもみじのような絵が描かれています。

私は「それ、カナダ製?」と聞きました。

Why?

「だって かえでの絵があるから。。」

その場にいた人はみんな大笑いをしました。 それはマリワナの葉っぱの絵だったのです。

このようにしばしばトンチンカンな会話をしながら 彼らは新風吹き込むような珍客を大切にしてくれました。

彼らが私達にマリワナを強要するようなことは決してありませんでした。 

たまに私を知らない人が勧めると

「彼女にはGodがいるからいらないんだ」 と 誰かが言うのでした。

確かに神様を信じていればこのような違法で高価なものを使って現実逃避する必要はないのにと私は思いました。 

でも。。。しかしいったい彼らをどこの教会に連れて行けるだろう。。私は ノースショアーの私の通うタラマラの教会を思い起こしながら考えました。  場違いとはこのことです。

彼らの中に ブライアンという人がいました。 彼は保釈中の人でした。

何かの理由で起訴されているといっても 最も分別くさく見えるので、私は本人の言うように悪人と闘ったと信じていました。

ある日 私は純子ちゃんと一緒にブライアンの家にランチに招かれました。

そしたらなんとリビングルームにカナリアが自由に飛んでいるのです。 私は「ギャー」という叫び声を上げて外に飛び出しました。 純子ちゃんも続きました。 私と純子ちゃんは鳥恐怖症なのです。(鳥恐怖症という変な持病を純子ちゃんも持っているとは知らなかったのですが.。)

危険は加えない、大丈夫といわれても恐怖症は恐怖症。 とうとう彼は玄関の小さなスペースにテーブルを運び込んで食事を運んでくれました。

彼は田舎で育ち 家には牛や馬など動物や鳥が一杯いたんだそうです。

「どんな生き物もケージに入れたり、鎖につないだりしたくない」 というのが彼の持論でした。 しかし それからまもなく彼は自分が鎖につながれケージに入ることになったのでした。 

彼らはおおむねビルダーとかメカニックなどのライセンスを持って仕事についているレーバーラーでしたが、中には何の資格もなく工場などを転々とするものもいました。

ギャリーもその一人でした。

そしてその頃彼は失職中でした。

出会った人や事柄を素通りできないという性格から私はその後痛い傷を負う事になるのです。

それらのいきさつは 当時日本に書き送ったメッセージに記されているので読んでください。

 

 昨年は生母の45年の記念祭のために 久しぶりに帰郷いたしました。 祝祭日のため親族、兄弟、旧友が一同に集まり、昔を偲ぶひと時をすごしました。 中でも大切なのは生母との再会といえるでしょう。 私の生後僅か半年で逝去した母のことは、当然のことながら記憶になく、育ての母にいつくしまれ、兄弟姉弟のぬくもりのうちに屈託なく育った私は、正直なところ、長く生母を偲ぶことはありませんでした。 この年になって 人生の苦しさや 生きることの痛みを覚えるようになってから、戦火の中を、命に代えて私を生み、守ってくれた母、その母に与えられたわが命の尊さをかみ締めるようになりました。 不思議なものです。 幸せしか知らないときには 自分の命や、人生の尊さがわからず、悲しさや苦しさを知ってから それがわかってくるのですから。

さてわが人生ーーー

娘の頃に反抗期のなかったなかった私は、今頃になってふつふつと社会へのレジスタンスを覚えるのですが、社会運動や慈善活動をしているわけではありません。 私はそれほど社会的ではないのです。 ただ自分の人生で遭遇した人や事柄に、駆け引きなく自己の100%で関わってしまう。 それが必ずしも正しい判断を伴うとは限らないのですがーー。だから私が知り合った友達の一人ギャリーが失職し、家を追われ、路頭に迷っている時、素通りすることが出来ませんでした。 子供時代を他人の家のガレージで暮らしたというほど貧しく、教育は低く、したがって何の資格もなく 安定した職業に就けない。 失職、転職の繰り返しと不運のために、人生に投げやりで、心の隅々まで卑屈でした。 私は心から新生を願いました。

微弱ながら助けもしました。(これがきっと大きな誤りだったのでしょう) 彼は希望を持つどころかますます自信を失い アルコールとドラグに逃避してしまう。そして安易な収入の道としてドラグの売買に手を出し、失敗し、プロに命を狙われるようになる。(小説みたいですが、本当なのです) 私は人間一人の命に代えるためにお金も作りました。彼の仲間からは”He is hopeless.  Forget about him.” と忠告されました。

“I don’t think anyone in this world is hopeless.”

友達からは「人間を変えようなんて傲慢よ」と厳しい批判を受けました。

「新生を信じずしてキリスト教はありえない」

99匹のたとえ話が身に染みました。

多くの友や愛する子供に囲まれながら、たった一人の人間の命と魂の救いをあきらめることが出来ない。 同時に、自分自身迷える子羊である私も見捨てることのないキリストの愛を全身に感じました。

気が付いた時には 私自身が借金でがんじがらめ、もう私に出来ることはなくなってしまいました。 いやひとつだけ出来ることがある。 

「祈り」  人間が他の人間に出来ることは、所詮、祈りしかないのです。

人間を信じたいという私の切なる願いに、光を与えてくれた人がいます。

現在服役中のブライアン。 彼を知ったのは判決の出る前でした。が、あるとき、彼は私に尋ねました。

「人間は許されるのだろうか」

「私は牧師じゃないからよくわからないけど、貴方がそれを問うたときから、貴方はもう神様に許されていると思う」 と私は答えました。

それから彼はまもなく判決を受け 遠い地に送られました。 一年後 シドニーの刑務所に移された彼を訪ねた時、私は修業僧のように清廉な彼の顔に驚きました。 世の中には不思議なことがあるのです。 入所当初、独房に入れられた時、一冊の聖書が残されていたのです。(備え付けられていたのではない) 外に出ることも許されず、彼はその聖書を何度も何度も読んだそうです。

「セシリアが心の100%で一人一人の人に接してきたことは、自分をはじめとして、それぞれの人の心に深い影響を与えているだろう。 セシリアなくして今の自分はない」 

精一杯生きているのに、借金のだるまになって、自分の愚かさを嘆いていたので、うれしい言葉でした。

この歳になるまで、何の力もつけず、道も究められず、いまだ混迷の中にありながら、このごろようやく 自分の人生のテーマのようなものがわかってきました。 

「人間愛」

子供達は、この迷える母にも関わらず、それぞれまっすぐに成長しています。 本当に感謝です。 きっと神様が、私に代わって守り育ててくれているのでしょう。

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まっすぐ育っていると思ったのは私の誤りでした。 子供達はそれぞれ心の奥深く傷ついていたのです。痛みを覚えていたのです。

さて 話の続きです。

プロつまりキングスクロスのビッグボーイズに命を狙われるようになって 悲壮な声で助けを求めたギャリーに私は身の回りの物を車に載せるように言い、彼をノースショアーのオーストビレジという欧米からのバックパッカーや日本人ワーキングホリデーの人たちが利用するアコモデーションに連れて行きました。 これまで何人もの人を紹介したり、姪が泊まったりしているのでオーナーのボリスとは顔なじみでした。

キングスクロスのビッグボーイズの手もさすがここまでは届きませんでした。

ノースショアーというのは環境の最も良い地域と言われ 日本人駐在の方が多く住まいするところなのです。

その後も仕事は見つからず自信を失うばかりのギャリーを私は遂に公文教室で使うことにしました。 ちょうど教室は教会のホールから貸切教室に移ったばかりでした。

教室日は日曜を除いて毎日となり、生徒数は合計300人に上るようになっていました。

助け手は必要だったものの ギャリーはかってドラグの経験もあり、アルコール、スモーキングの悪癖も通常ではなく 仮にも人の子供を預かる教室に出入りしてよいのかと不安であり、また賭けでもありました。 私の子供等から反対を受けたのは言うまでもありません。 子供達は本当に心配していたでしょう。

当時の公文局長であった青木さんは数学一筋の地味な方でギャリーの雰囲気が教室に似つかわしくないという事に気づかれなかったのかクレイムを受けることもなく また奥様は公文教室の指導しておられたのですが、実に気さくで缶ビールをそのまま飲むようなオージースタイルを好まれて ギャリーとも馬が合い、この無謀な試みも案外うまく行ったのです。

そして意外にも 彼は生徒や母親から慕われました。

しかし公文教室の経営とは実に零零細ビジネスです。 生徒数は増えたのですが、人間一人を完全雇用するには無理がありました。 そして経営は見る見る苦しくなっていったのです。

それにもう一つ私の心を暗くすることがありました。 彼の飲酒、喫煙やマリワナのアデイクションは一向に直らなかったのです。 一人の人間を更正するなどということの至難なる事を悟りました。

私は遂に解雇を決意しました。

その時受けた怒りと恨み。 どんなに長い間 助けたとしても最後に見捨てなければならなくなったとき、そこには怒りと恨みしか残らないのです。

しかし人生とは時に実にドラマチックです。 

公文の教室で彼のために開かれた送別会の日、沈鬱になるべきその日の朝、彼は新しい就職が決定したのです。

長い間 私が助けたいとむきになっていたとき、彼は何度試みても仕事に就くことが出来ませんでした。 私が力尽きて見捨ててしまった時、(いや 見捨てられたと知って本人が 遂に立ち上がったとき、神は手を差し伸べられたのです。 神の摂理のなんと深いことか。。私は自分の無力を知って 傲慢に成ることを免れたのです。

社会に反抗的になっていた私は、人を助けること(自己犠牲)によって 挫折だらけの自分の人生に価値を見出そうとしていたのでしょう。

ドラグアデイクトの失業者を公文の教室に雇用するなど良識的には明らかに誤りでした。 でも私はたった一つの出来事でそれを悔いてはいません。 私がギャリーにはかなわないと思ったことがあったのです。

それは公文の教室に知的障害のある5歳の子供が入会した時のことです。

私の目にもチーフアシスタントの幸子さんの目にもその子供の障害は明らかで私達は一体どうやってこの子を指導できるのだろうと心のうちでは案じていました。 しかしギャリーの目にはその子の障害が見えないのです。ただわがままに育ってしつけが出来ていないと感じるだけなのです。 ギャリーはその子供を抱きかかえて教材を片手に熱心に指導しました。それはもう根気良く。 そのうちその子は「ガリ、ガリ」といって教室の中でギャリーを追い掛け回すようになりました。 しばらくしてその子供の通う施設から成長の跡が著しいのでどのような指導をしたのか報告してほしいという依頼を受けました。 ギャリーは張り切ってその報告をしたためました。

教育は相手を信じた分だけ可能にするという教訓を見たようでした。 考えてみると ギャリーの更正の可能性を一番疑っていたのは私だったのかもしれません。

人間の生まれ持った能力の違いや環境の不平等による社会の歪をどうすれば良いのか回答は得られないまま 私は長い回り道にようやく終止符を打ちました。

 

人生記1 (続豪州奮戦記)


私が海外移住を決意した理由には 実は深層に秘める複雑な思いがありました。

その一つは 結婚の問題でした。 

私は夫であった中川との結婚に対して長く疑問を感じ思い悩んできたのですが、答えを見出すことが出来ませんでした。そしてその答えを海外雄飛に託したのです。

もう一つは 私の生い立ちにありました。

私の生母は私が六ヶ月の時に九人の子供を残して亡くなりました。 私は新しい母に育てられました。 育ての母にはひとりの娘がおり、父との間に弟が出来ました。全部で11人の兄弟ですが、血縁の上では複雑でした。

クリスチャンの家庭でも 人間の愛憎は同じです。 母と私の兄、姉との間には目に見えぬ確執がありました。 父がなくなってからは それは次第に鮮明になってきていました。 私は大好きな母と 私を亡き母の忘れ形見と思う姉達との間で胸を痛めることが多かったのです。 死に近いような遠い国に旅立つことで それらを超えたいと思いがあったのでしょう。

いきなりこのようなネガテイブな事情をお話しするのは 心苦しいのですが、これから後の物語を続けていく上でお話していないと理解しがたい部分があるので、あえて記しました。

中川の勤めた会社はサファイヤオパールセンターといい、シドニーの街中にオパール店やDutyFreeの店を持つ会社でした。

社長はマイケル・コステロといい、会社を一代で築き上げたワンマン社長でした。

中川の仕事は日本から来る旅行業者がつれてくるツワーグループをそれらの店に誘致する仕事でした。 

「金で両頬ひっぱたいて」契約を取り付けると表現していたくらいですから どのような仕事振りであったかを想像できるでしょう。

同じ業界の他の会社にも、日本人のマネージャーはいましたが、オーストラリア風ののんびりした仕事振りでしたから、中川は容易に力を発揮することが出来たのです。 

コステロ氏は業績の上昇を喜んでおられたようですが、中川とはよくぶつかりました。 そのたびにコステロ氏は私に電話をしてきて ”Why is he so unhappy?”と尋ねられました。

そんな時 私はいつも、彼には私も頭を悩ませていると愚痴をこぼしました。

そうするとコステロ氏は

“No worry! I will fix him up.”といって事を収めました。

こんな風にして仕事は続いていました。

私達はコステロ氏夫妻に良くしていただきました。

自宅へ夕食に招かれたり、 また私有の船でのシドニー湾の遊覧にも招かれました。その小さい船は 寝室、台所、トイレ等が備わっていて 旅行業者やガイドさんなど、仕事上のお客様の接待などにも使われました。

どんな人にも平等に与えられているオーストラリアの青い海を、富めるものがどのように楽しむかを知る事が出来ました。

この頃子供達はようやく家庭の事情を心配をせずに 勉学やスポーツに専念できたようです。

私も学校の先生や子供の友達や両親を家に招いたりして、オーストラリアらしいライフを送ることが出来ました。

渡豪三年目に会社で、日本でオパールの展示会が企画され、私はその手伝いのために、日本を離れて初めて帰国することが出来ました。

そして久しぶりに会う母や兄弟、日本の友達と再会を喜びました。

しかし そこで私は、母と姉達の間の確執が いっそう強くなっていることを知りました。                                                     

母に 「お母さんもオーストラリアに来ない?」と、そのことに何も出来ない私は尋ねました。

母は、「人間はつらいことや、悲しいことがあるから、なにくそって生きようと思うものなのよ。何もなくなったら 生きる元気もなくしてしまう。」とこたえました。

私が 日本を再び立つ日、母は用事があるといって出かけました。 私が出かける母を見送ったのが 母を見る最後でした。

姉達は 総出で見送りに来て、送りに来ない母を口々に責めていました。 でも私には 母の想いが深いゆえに見送ることが出来ないでいることを感じ取っていました。

オパール社にはいくつかの店舗がありましたが、その中にオーストラリアスクウエアーという円筒形のビルのワンフロアーを使ったユニークなお店がありました。 

そこには博物館のようにオパールの採掘場を模した展示室があり、その模型の採掘場を抜けると オパールの商品がデイスプレーされているお店でした。

中川はそれを利用してオパール採掘ツアーと称し、模型の採掘場を通り、旅行者にはオパールマイニングの説明をし、お店に案内するという企画をしました。それは大好評でした。 

会社の業績が伸びていくのと比例して 中川はコステロ氏への不満を募らせていきました。

そしてあるとき、彼はいくつかの条件を列挙し これを呑まなければ退職するという辞表をコステロ氏に提出しました。

コステロ氏からいつものように電話がありました。

「ジョンは一体何がそんなに不満なのか。。」

私はこれまでのように いい加減な返事が出来なくなって 「二人の問題は二人で解決してください」と言いました。

その日のうちに辞表は受理され、中川は失職しました。

家にもどった中川はあちこちの旅行業者や観光業者に電話をして 退社の報告をしていました。 その声は妙に甲高く、次第に上ずってきてこれから先の不安を予言するかのようでした。
 

予想外の辞表の受理で思いがけず失職した中川が真っ先に考えた事はサファイアオパール社で企画したオパール採掘ツアーを他の業者に売ることでした。つまりすでにコステロ氏の店につれてくることになっている日本人観光グループを他の店に変更することで歩合を取るという方法でした。 関係した旅行社はこれまでの中川とのかかわりからそれを承諾したようでした。

「そんなことをしても良いの?」 と私は聞きました。これはまさに裏切り行為です。

「お前はビジネスの世界を知らない。 ビジネスでは食うか食われるかだ」 という返事に 汚水を飲まされるような嫌悪感を感じたものの 経済力を持たない私はそれ以上、何も言えませんでした。

ところがこの計画は 思いがけない展開を見せました。

コステロ氏の会社ではなく別のお店に連れて行かれた旅行者から 苦情が来たのです。

「前に行ったところはこんなところじゃなかった」

「前のお店のほうがずっとよかった」

倉庫のようなところに即席に作ったオパール採掘の展示では客は満足しなかったのでした。

「私らは お客さんが一番大事ですからねえ」 旅行社の言葉に中川は歩合を受ける事もできず、ただ信頼を失っただけだったのです。

その誤りの報いを家族として受けることになるにも関わらず、私は心のうちに喜びを感じました。 

ビジネスの世界でも「正義」が勝つ!! その事がうれしかったのです。 

この件は一回だけの歩合を受けられなかっただけには留まりませんでした。その後中川は不誠実の結果がどうなるかを骨身にこたえるほど知らされたのです。

中川はその後、同じ業界の会社をつぎつぎに訪ね、職を求めました。 コステロ氏の会社をあれだけ伸ばした力を他社も知っているはずだから きっとすぐに就職できると考えていたのですが、どこからも拒絶されました。

何故という疑問にダレルジェームス社の社長がこたえました。

「問題のある人物をあえて採用する会社はない」と。

英語の力のない中川がこの国で出来るのは日本人を対象にした同じ業界に限られます。そしてその業界から中川は完全に閉め出されてしまったのです。

その後中川は様々なビジネスを考え、かかわり、失敗していきました。

最初につかんだ仕事はハーデイーブラザーズという宝石店からオパールの委託を受け日本で売るという仕事でした。

中川は家を抵当にしてオパールを借り受けました。

大小、色、形、様々なオパールをファイルに収め 中川は日本へ旅立ちました。

オパールは全く売れませんでした。

日本人旅行者はオーストラリアに来て散財します。 しかし宝石商でもないひとりの海外在住の日本人がオパールを持ち歩いても、買う人はいないのです。

知人の中には、「正直にその旨を話してそのオパールは会社に返しなさい」という助言を下さる方もいたのですが、中川はそれが出来なかったのです。 「面子」という言葉をよく口にする人でした。

中川は 私の母のところに行って 必ずいずれ時間をかけて売りさばくから、総額を貸してほしいと頼みに行きました。 母が私に一言それを伝えてくれたら 私はなんとしてでも止めたのですが、私には全く知らされなかったのです。

中川は母から借りたお金を持って ハーデイブラザーズに戻り鼻高々に委託されたオパールの代金を支払いました。

そして間もなく、売れることのなかったオパールを携えて、また日本に旅立ちました。

日本に着いた中川は東京から関西に向かう新幹線の中で かばんを置いて食堂車に行きました。

その間にかばんは盗まれました。 かばんの中にはオパールが入っていました。

中川は母から借りたお金で買い取ったオパールを失ってしまったのでした。

そして本当に遺憾ながら 原因が不注意であることと、関係者の証言が中川が「信頼に足る人」と言うものでなかったために 保険金の支払いは困難を極めました。

当時の中川が日本でどのような交友があったのか私には定かではありません。その交友の中から 様々なビジネスの可能性が話し合われたようです。 しかしその内容から堅実な仲間とは想像しがたいものでした。

日本から戻った中川は 真っ先に新しいビジネスの構想を語りました。

「ここでトルコ風呂を始める。女と水と石鹸とみんなここで調達できる」

私は、それなら先に私を離婚してくださいと言いました。

「俺は遊んだりしない。 俺の名前も表には出ないようにする。」と中川は答えました。

「貴方がそこで遊んでも私はかまわないわ。でもそれで得たお金で子供を育てることは出来ないの」

私の言葉の強さに 中川は不承不承にこの企画をあきらめました。

次に考えたのは この国のカンガルーの皮を使って 韓国の安価な労働力でコアラを作り 日本で売るというものでした。

運営資金が必要でした。家を担保に資金を借りました。

家の名義は半分私の名前になっていたので、私は一緒にサインをしなければなりませんでした。重い鎖につながれたような足取りで私は銀行にいきました。

そしてまた中川はこの国を後にしました。

「今度こそ一億円作れる。」

私の求めているものはお金ではないと何度話しても 彼の言葉はいつもこうでした。

私を精神的に満たすことが出来ないと知っていたからかもしれません。

カンガルーの皮を仕入れ、それを韓国に送り、本人は日本で販売網を作るため知人を頼って奔走しました。

そして韓国から縫製されるコアラ人形を待ったのです。 できあがって届いたコアラ人形は悲惨な物でした。目は耳の位置に付いたり、耳はおなかに付いたりしていたのです。

 れから中川は日本に行ったきりで戻ってきませんでした。定まった住居があるわけではないので 連絡は途絶えたままでした。

その間、すでに銀行から借入金の返済を求める圧力がかかっていて、弁護士から何度も 連絡がありました。「モゲージセールになると家は格安にしか売れなくなる。何とか主人に連絡して対策を考えるように」と。

その頃 公文式教育会がオーストラリアに進出する事を知り応募しました。

公文式は数学と、国語の教科があるので国語の教室が出来ればと思っていたのですが、教室には数学が必須でした。

「ママは数学なんて得意じゃないからどうしよう。。。」と子供達に話すと 

「数学はやり方さえわかれば難しい科目じゃないよ」 と剛平に肩を押されて、所定の研修を受け、ノースショアーのゴードンで教室をスタートしました。

日本人駐在の方が多い地域で学習者は月ごとに増えていきました。

ある日、 社会福祉センターから電話がありました。知人のオーストラリア人の方が、私の状況を知り、社会福祉センターに知らせたのです。

ソーシャルワーカーの方からの電話で、すぐに面接に来るように言われました。

ソーシャルワーカーの女性は私の状況をくまなく聞いて、「ご主人と離婚したら、社会福祉からBenefitをうけられますよ」 といいました。

「私はクリスチャンなので離婚は出来ないのです」 と私は答えました。

「オーストラリアは貴方と貴方の子供達を助けることが出来ますが、貴方のご主人のビジネスに手を貸すことはできません。 書類の上だけでも離婚すればいいのです」

「本当についていけなくなったら離婚を決意します。 でも今は書類の上でもやっぱり私は出来ないです。何とか頑張るからだいじょうぶです」 と私は答えました。

その方は「私は長くこの仕事をしているけど、貴方のようなBraveな人にあったことはないわ」 といって頑張るようにと励ましてくれました。

数日たって その女性から電話がありました。

「何とか Benefitが出せるようになりましたよ」 といいます。

「熟から入る収入はどうしましょう」 と私が言うと「そんなの黙ってらっしゃい」 と笑いました。

こんなこともありました。

男が訪ねてきて家具や家財に紙を張っていくのです。

中川が個人的にお金を借りた人が 裁判所に訴えたために差し押さえに来たのでした。

私は 家を売りに出すこと、家が売れたら必ずそのお金は返済することを約束し、所定の書類にサインしました。

長い間、悩み続けた夫との心の亀裂はもう心の問題ではありませんでした。

何もかも問題を残して行方不明になる夫、それが夫と言えるのだろうかと煩悶しました。

しかし絶対に離婚は出来ない。それは信仰の上で定められたことで、私の心の中で破ることの出来ない掟でした。私はその結論が決まっているために 袋から出られない思い悩みで苦しみました。 

そして 牧師である次兄に相談の手紙を書きました。

兄から返事が来ました。

「お前は中川君が本心に立ち返るなら、自分も一緒に頑張って貧しくも堅実なライフをやり直したいといっておるが、私には 中川君にそれを期待することは出来ないように思う。」

そして

1、結婚というものは二人でするものであって 一人では成り立たない。

2、人間が天使でない以上 誤りはある。

3、したがって自分は離婚も許されないことではないと思う。

という内容でした。

パーンと袋が破れたような気持ちでした。

離婚も許されないことではないと思うーー。

私はこの言葉によって自分を呪縛していた袋から出ることが出来たのです。

離婚届を取り寄せ 私は自分の欄に署名、捺印しました。

事態の収拾には家を売らなければならないことはわかっていました。

しかし私も何とかほかに打開する方法はないかと考えました。そして母に相談しました。

実は、母はこの半年ほど前に脳梗塞で倒れ、病院での治療の後に自宅に戻り、リハビリをしていました。 私は 案じてはいましたが、姉や兄には、後遺症はあるが大事無いと聞いていました。

心配をかけてはいけない状況であったでしょうに、私の中では元気な時の母しかなかったのです。 

私は、今、住んでいる家を抵当にして 日本の銀行からお金を借りることは出来ないかという内容の手紙を送りました。 同じ内容の手紙を次姉にも送りました。

母からは他の国の不動産を抵当にしてお金を貸すような銀行はありませんよという返事でした。 私はお金を無心したのではないのですが、後にこの手紙を書き送ったことの悔いに苦しみました。

そのことで母は姉達に責められたのです。

和子がこんなに困っているのに、助けることが出来ないのかと。。。

私は母を責めるつもりはなく、私を盾に姉達が母を責めるのが悲しくてなりませんでした。

私は最後の道を断たれてとうとう家を市場に出しました。

少しでも良い買い手が付くようにと 子供達とペンキを塗り、庭を手入れしました。 

プラクテイカルなことが得意な剛平がリードして家は整えられました。

どんなに悲しいこともつらいこともそれを共にすれば喜びとなります。

この苦難の時、私の夫はともにいない。

もう離婚も許されるのではないか。。。私は私の名だけが記されている離婚届を何度も見つめました。

そんな時、中川は突然帰ってきました。

どれほど長く行方不明になっていたことか。

中川は 遂に日本で良い就職が決まった。折り返し日本に戻るが、これからは生活は安定するといいました。

借金返済という大きな問題は何も解決されていないのです。日本で就職するとなると もうこの国には住まないということです。

「もう一度貴方はこの国でどんな仕事でも良い、見つけて 一緒に借金を返していけば。。?」と私は尋ねました。

「お前は肉体労働でもというかもしれないが、俺は自分のプライドを落としてまで この国にいたくはない」

「でも家族が物理的に隔てられれば、本当に家庭の崩壊につながるかもしれないのよ」

「そうなったらそれで仕方がない」 と中川はこたえました。

私は 「それなら この国を離れる前に これにサインしてください」

用意した離婚届を見て中川は驚いたようでした。

「お前と離婚するのは かまわないが、子供達のことを考えるとそれはできない」

「それなら 貴方と子供達で話し合ってください」 と言い、私は席を立ちました。

聡平、剛平、恵、三人の子供たちと中川は話し合うことになりました。

聡平が「パパはね、今度帰ってきた時、真っ先にママに謝るべきだった。 パパの残した問題をママは一身にかぶって頑張っていたんだからね」 と言い、

そして続けました。

「結婚は夫婦二人の問題なんだよ。 パパがママと一緒に心を合わせて生きて行きたいと思うのでなければ 子供を理由に離婚しないというのはまちがっているよ」

「パパは弱いんだ。お前達を失ったら、糸の切れた凧のようになってしまう」 

「パパ、僕らはパパとママの関係がどうなっても、生涯パパの子供なんだ。それは決して変わらないんだよ」

もう離婚を止める理由はありませんでした。

中川は離婚届に署名捺印をしました。

しかしこの書類を提出するのはもう一年待ってほしい、もう一度だけチャンスがほしいといいました。 必ず一年で立ち直るから。

そして家の買い手が付いたら必ず知らせてくれといいました。

「遠い海を隔てて離れてしまうのです。もし夫と認められないと感じることがあれば 私は届けを出します。わかってくださいね。」と私は言いました。

借金と子供とともに異国に残される寂しさと不安は言葉にはつくせません。

長い間 私は夫との精神性の違いに苦しんできたとは言え、辛苦をともにする伴侶を失うことを望んだわけではありませんでした。

中川に日本での新しい仕事を紹介してくれたのは 古い友達で木部さんという方でした。 私のことも良く知っておられました。

ひとりで帰ってきた中川に木部さんは

「奥さんはどうした」と聞きました。

「ワイフと子供は 置いてきた」

「何故連れて帰ってこなかった?」 木部さんは中川に責めよりました。

「何故、首に縄をつけてでも連れて帰ってこなかったと聞いているんだ!!」

木部さんは中川に殴りかかりました。 止める人がいなければ殴られていたと後に中川は話してくれました。

私がその話を聞いたのはすでに離婚をしてからのことでしたが、その話を聞いた時、胸が一杯になり涙しました。

私の心を分かってくれる、その心がありがたかったのです。

離婚を勧める姉達には優柔不断と責められ、また心無い人には夫の事業の失敗についていけないわがまま育ちの妻と指をさされました。

私がオーストラリア在住に執着したので、中川はひとりで日本に帰らなければならなかったと判断する人もいました。

何で私が 借金だけのある異国にとどまることに執着しましょう。 私はこれまで暖かく私達を受け入れてくれたオーストラリアに借金を残したままで去ることなんて出来なかっただけです。

そんな中で、どんなことをしてでも私をつれて帰ってくるべきだったと激怒してくれたという木部さんの心は暖かく胸にしみました。

私は感謝の気持ちを伝えたかったのですが、離婚をしたことを自分の友達には絶対伝えないでほしいという中川の切願のために、それを伝えることが出来たのは5年後に中川が再婚してからのことでした。

 

さて話は元に戻ります。

中川が日本に去った後、まもなく 家にOffer(買い手が買いたい価格を言う)が来ました。決して良い価格ではありませんでしたが、もう本当に選んでいる事態ではありませんでした。

私は中川に知らせました。

「お金が作れた。数日のうちに送る」と中川は答えました。

数日経っても一週間を過ぎても送金はありませんでした。

もう状況はそんな余裕はない。私は弁護士にも不動産屋にも叱られました。

家にまた別の買い手が見つかりました。

私はまた知らせました。

「姉が貸してくれることになった。今度こそ本当に送金できる。」という返事でした。

私は中川の姉に即電話をしました。

「私ははじめからきっぱりと断っている。」と義理の姉は言いました。

今になると何故中川がそんな嘘を言わなければならなかったかが良くわかります。彼はお金を作れず、家を手放すことになれば 本当に私達を失うと考えたのでしょう。 私の求めるのはお金や力ではなく、精神であることをどれほど話しても 彼は理解することが出来ませんでした。

人生にはいろんなことが起こります。 平穏な時には見せることのないその人の真の人間性、精神性が困難に遭遇して明確になるのです。

私は夫の能力ではなく、その言葉を信じることが出来ないのなら 夫婦とはいえないーー。もう本当にひとりになろうーーそう決断し、離婚届を投函しました。

「結婚は二人でするものだから 一人では出来ない。

人間は天使でない限り誤りを犯すことがある。

だから自分はは離婚も許されないことではないと思う」 牧師である兄の手紙の言葉が脳裏に繰り返されました。

1985812日 離婚が成立しました。

これは私にとって 長い精神的苦悩の開放でした。

夫婦である限り 妻は夫のポリシー、人間性を認めることになるのです。夫婦とは人生の共同者であると同時に共犯者ともなりうるのです。

長い間の結婚生活で 彼の人間性についていけないと思うことがたびたびありました。 私がそんな心の悩みを打ち明けると、人は養ってもらっているのだから、それは贅沢な悩みだと一笑しました。 

夫の事業の失敗と経済の崩壊、それは私が望んだことではなかったけれどそれによって結果的に離婚にいたりました。

私に与えられたこの苦難は、中川と離婚することの免罪符だったのかもしれません。

これからは自分の信条に従って生きていけばいいーー

伴侶を失った寂しさとともに私は終わりのない心の葛藤に終止符を打つことが出来たのです。

それからのことの運びは順調でした。

家は即座に契約が交わされ、私達は 飼い犬ドンちゃんを連れて住める貸家を探しました。 

私は子供達と一緒に 新聞の貸家の広告を見ました。

聡平が突然 「かわいそうー」といいました。

「誰が?

「この家、週に2000ドルだって。 貸す人も借りる人も天国いけないよ」

金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しいという聖書の言葉があるからです。

「本当。かわいそう」とみんなで同情しました。

聡平はこんな風に どんな環境でも持ち前のユーモアで私達を笑わせ、家の中は和やかでした。

そしてまもなく犬を飼っても良いという借家が見つかりました。

住む家も見つかり、ようやく人心地つきました。 ちょうど子供達の学校は休みに入っていました。 私は久しぶりに恵とショッピングセンターに出かけました。

これから引越しですが、プラクテイカルな労働は心労に比べるとたいしたことではありません。

久しぶりの街を恵と二人でぶらぶらと歩いて家にもどると、まもなく電話のベルが鳴りました。 珍しくい姪の声でした。

その直後、 私の悲鳴にも似た叫び声に子供たちが飛んできました。 

「どうしたの、ママ」

「おばあちゃんが死んだの」 

 一瞬張り詰めたような沈黙を破って、聡平が言いました。

「ママ、すぐに帰るんだろう」 

私はすぐにJALに電話をしました。 2000ドルーーこつこつためたお金はようやく2000ドルにはなってはいました。

「また電話します。」といって私は一旦受話器を置きました。

「いくらなの?」 と聡平。

「2000ドルだってー」 どうしようと一瞬思ったのです。

「そのくらいあるんだろう。 すぐ手配するんだ。 そのくらいのお金 僕が働き出したらいくらでも作ってやる。今、行かないとママは生涯後悔するよ。」

翌朝早く 私は飛行場へと向かいました。

機内では離陸のときから着陸のときまで 私は泣き続けていました。 

隣の乗客は申し訳なさそうに、でも事情を察してかやさしい気持ちで見守っていてくれているようでした。

悔恨ーー。 私は この危機のとき母に頼りました。お金を貸してほしいといったのではなく 日本の銀行から借りられないだろうかという相談でしたが、拒絶をするほうにとっては同じ苦しさだったでしょう。 そのことのために母は姉達に責められました。

ああ、母は私が母を恨んでいると思っただろうか。

いや、もし母が死ぬということことがなかったら、私は或いは見捨てられたと思ったかもしれないーー様々な思いが交錯しました。

家というのは物です。

物への執着を捨て去ることを 母は私に自分の死を持って教えてくれたのですーーー。

日本に向かう飛行機の中で 私は本当に大切な教訓を知るにいたったのでした。

日本について、飛行場から直接ミカエル大聖堂に向かいました。

礼拝堂では通夜の礼拝が終わったところでした。 姉も兄もみんなすでに集まっていました。

悲しい再会でした。

継姉(母が連れてきた姉)、敬子が母の亡骸の傍にいました。

そして私に言いました。

「カコちゃん、お母さんはね 今、和子を助けたら あの子の為にならならないってずっと言っていたの」

私は泣きながらうなずきました。

翌日お葬式で三番目の姉の公子が 棺の中の母を見て激しく泣いていました。 

ああ、この姉なら私の気持ちが分かってくれるかもしれない。

私は二人になったとき、そっと姉公子に言いました。

「みんなが私のためにお母さんを責めるが苦しかったの」と。。。

誰かに告白せずにはいられなかったのです。

お葬式が終わって私はすぐに子供達の待つオーストラリアに戻りました。

留守の間の公文の教室は所長の新木さんと子供等が守ってくれました。

ひと月の間に 夫と家と母を失うーー。そんな自分の運命をそっと眺めている自分がいるような気がしました。
 

オーストラリアに戻ってまだ間もない頃、姉達から電話がありました。

長姉道子、次姉洋子、そして四姉邦子からでした。

「公子から聞いたけど、貴方を守ろうとしている私らを貴方は不愉快に思っていたんだそうね。 もう金輪際貴方とは縁を切りますからね」 かわるがわる電話に出る姉達が同じようなことを言いました。

私は受話器を下ろして いつまでも泣いていました。

その後 数日して 弟(父と母の子供で兄弟の末っ子)から電話がありました。

「遺書が出てきてね、 敬子の名義の預金は敬子に、武の名義の預金は武に、そして富美子(母の名)の名義の預金は和子にって書かれていたんだ」

私には500万円が与えられることになりました。

私はそれを残る8人の姉、兄に分割して渡すことを決意し 姉、兄にその旨を書面で知らせました。

翌年828日、母の命日のために帰国した私は分割した小切手を一人一人に渡して歩きました。

ミカエル大聖堂で牧師を勤めていた長兄を訪ね、その小切手を渡した時、

「これは わしがもらったことにして そのままお前に返そう。」 とその小切手を返してくれました。

私はありがとうも言えずただ涙がポロポロ落ちてくるばかりでした。

久しぶりの日本、長く会っていない友やお世話になった人がいます。 そんな人たちに連絡をしました。

私はそこで「離婚をした」女であることの現実を身に染みるほど知らされました。

電話の先で「私一存では決められませんのでほかの方に相談してから」という言葉が返ってくるのです。

ミッチェルの友達が理由は何も聞かずに すっぽりと私を迎えてくれた事をどれほどうれしく思ったことでしょう。

離婚ということが社会の中で受け入れられるか否かということのほかに 私はキリスト者としてそれが真に許されるものなのかということがずっと心に引っかかっていました。

そう考えた時、私は何故離婚をしなければならない人と結婚してしまったのだろうと言う命題をその後ずっと抱えることになったのです。
 

新しい人生のスタート
 

キリスト教の結婚式では 必ず「神の合わせたもう者、人これを離すべからず」という言葉を司式者が宣言します。 これがキリスト教において 離婚を否定する所以です。

結婚が神の合わせたもうたものなら何故神様は離婚しなければならない人と私を合わせたのか。。。

それとも結婚とは人間の自由意志によるのか。。このようなことを思い巡らして私は自分の結婚のいきさつを思い起こしました。

私が中川にあったのは大学の四年生の秋でした。

大学生活が終わろうとする頃、私のなかでなぜか、女性としてのコンプレックスが心の奥深く巣くっていました。

大勢の兄弟の中の末娘でしたから、父はまだまだ傍に置くつもりだったのでしょう、お見合いの話も陰で断っていたようなので 私自身はお見合いのお話しもないとひがんでいました。 娘の心、親知らずです。

ある日、父が建てた桃山学院大学で教鞭を取っていた義兄がアメリカに行くというので羽田の飛行場に見送りに行ったときのことです。 教え子であった中川も見送りに来ていました。

「こいつは大学四年間もいて遊び一つ知らん。 君、チョット遊んでやってくれ!」

義兄は中川に言いました。

この言葉はあまりにも無謀でした。

中川は義兄に言われたとおり、私をレストランやボーリングにつれて行ってくれました。 初めて起こった楽しい出来事に、飛んだりはねたり無邪気に喜ぶ私。父は深く失意しがらも正面からは反対しませんでした。

宗教家である父は 人間を家柄や、学歴や貧富で差別することはしない。他の人の幸せを踏み台にするという理由がない限り、父は何人も否定することは出来なかったのです。

きちっと人を立てて まとめなくてはいけないと父は考え、出会ってまだ4.5ヶ月もしないうちに気が付いたら婚約が決まり、結婚の日取りが決まってしまいました。

時代が違っていたとしか言いようがありません。

「親というのは弱いものでね、相手をどんなに不足に思っても、娘が傷物になって捨てられてしまうのではないかと心配になるのよ」と次姉洋子が言っていました。

挙式までの僅かな期間に私はすでに自分の結婚に関して心によぎる疑問を感じ始めていました。 でもすでに公に公表された事柄を覆すほどの勇気のある娘ではありませんでした。

それは想像もしなかった人生の始まりでした。 

話が戻ります。

家の売却、離婚、母の死を通って、85年、秋も深まる頃 私たちは愛犬ドンちゃんを連れて古い小さな借家に移りました。 

ドンちゃんは中川が仕事先からいきなり貰い受けたシェパードで外には獰猛だったのですが 家族には優しい犬でした。動物嫌いの中川のことをとても怖がっていました。

中川がいなくなって小さな家で大きな身体を伸ばすドンちゃんに、

聡平が「遂にお前が勝ったな~」 といって みんなを笑わせました。

聡平11年生(高校二年生)、剛平10年生(高校一年生)、恵7年生(中学一年生)でした。

ようやく 嵐が過ぎ去って落ち着いた生活を戻し、子供たちは学業に励み、私は公文の教室の運営に励んでいました。

私は長くオーストラリア政府から失業保険という形で援助を受けていました。 社会福祉事務所のソーシャルワーカーの方が好意的に援助を受けられるようにしてくださり、公文教室のことは黙っていらっしゃいといわれたのですが、いつまでそれを続けて良いのかわからないでいました。ニ週間に一度送られてくる書類にサインをすれば資格は続行されます。社会福祉から頂く金額を公文の教室で捻出するには30人の学習者が必要でした。自分から辞退するには中々決心が付かなかったのです。

ある日、聡平は社会福祉から送られた書類を見て 私の目の前であっという間にピリピリと破ってしまいました。 

「オーストラリアはもう十分僕達にしてくれた」

これで社会福祉からの支給は止まります。私はもっと頑張って仕事に励まなくては成らなくなったのですが、案外爽やかな気分でした。 

年明けて 1986年1月、オーストラリアデーの暑い日でした。

私は突然強烈な頭痛と高熱にみまわれました。

翌日も熱は引かず嘔吐も伴い病院に入院しました。検査の結果ビールス性の脳膜炎と診断されました。

四日四晩、私は激しい痛みの中で懇々と眠りました。子供達の中で運転できる者はおらず 子供たちは毎日病院にまで歩いて見舞にきました。 そして病院からの暗い夜道を三人はとぼとぼと歩いて帰りました。

聡平が恵に「ママはきっとよくなるからね」と励ましました。

子供たちにとって一番不安な寂しい時だったでしょう。

病院では病因が細菌性でないとわかると 安全な痛み止め以外は何もくれず、医者が回診してきて強烈な頭痛を訴えても 私の肩をたたいて

”You will be all right.” と優しく言ってくれるだけでした。 五日目の朝は日曜日、急に熱が引き私はこれまでの様子が嘘のように突然元気になり、看護婦さんの止めるのも聞かず家に戻りました。 元気を回復すると子供と公文の教室が心配でたまらなくなったのです。

公文の父兄の方が 日本でも同じ病気で入院された方が、様々な治療の末 後遺症が残ってしまったと話しておられたので、素朴なオーストラリアの治療法が良かったのかもしれません。

そういえば 聡平は小さいときから体が弱く 日本では注射攻めの薬漬けになっていたのですが、こちらに来てから注射は一度も受けたことがありませんでした。

 

私たちは小さな家で片寄せあってひっそりと、でも和やかに生きていたという感じでした。

時々聡平のジョークに笑いながら。。

それでも生活が落ち着いてくるほどに異国に頼る者もなく生きることの寂しさを感じるのでした。

その年の8月、母の一周期で日本に帰りました。

2週間の旅を終え、日本の友に書き送った手紙です。

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96(土)、午後8時 万感胸に秘め 機上の人となりました。

良い旅でした。

多くの人と逢い、語り合いました。

時というものは不思議なもので、万人に共通の時が ある者にとっては 人生の節となることがあるものです。

僅か2週間の日本の旅は、明らかに私の人生の新しい頁を開くものになりました。

離婚して一年余り、耐え難い寂しさに襲われ 日本への郷愁の念に苦しむ私に この旅は子供達からのプレゼントでした。

ニ週間、東京の街をさまよい、神戸の街角にたたずみ悲喜こもごもの人とのかかわりの果てにいつしか 新しい生の力が蓄えられていました。

もう一度オーストラリアで頑張ろうーー。

7(日)朝、降り立ったシドニーの空は限りなく青く、梅やつつじの花が咲きほころび 春の日差しが柔らかでした。

道行く人の人懐っこいスマイルや 小鳥のさえずりまでが”Welcome home!”とささやいているようでした。

子供達は三人とも元気に留守を守っていました。

「蒸発だけはするなよ」と言って私を送り出した聡平は「良く帰ってきたね」と肩を叩いてくれました。剛平は台所のお鍋をぴかぴかに磨き、恵は私の寝具をすべて新しく取り替えていてくれました。 こんなに私を大切にしてくれる子供達を置き去りにして日本帰還を企てていたなどもってのほかです。

これからも異国の空の下、寂寥の念に苦しむこともあるでしょうが、日本をそして日本の友を見つめながら この地で頑張ることにします。

一生懸命働いて 度々日本を訪ねます。

次の再会までくれぐれもお体を大切にーー。
                        1986.9

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考えてみると私はこの後ずっと日本を見つめながら、日本に語りかけながら生きてきたように思います。

それは特定の誰かにではなく 祖国日本にでした。そしてきっとそれが私を支え続けてきたのでしょう。

その年の12月、聡平は12年生、剛平は11年生、恵は8年生をそれぞれ終了しました。

公文の教室は、日本人約70名、オーストラリア人(中国人を含む)約40名、英数国 総合学習者約170に成っていました。

その頃 公文の教室では剛平がアシスタントとして働いてくれていました。

ある日 日本の公文教室の先生方が視察のために来濠し、ゴードンの教会のホールを使って運営していた私の教室にも訪ねていらっしゃいました。

日本で一番大きい教室を運営されている南浦先生が 

「すごいアシスタントを使ってらっしゃいますね」と言われました。

「集中力と殺気を感じるほどの気迫を感じる」といわれるのです。

そしてそのアシスタントが私の息子であることがわかると

「悪い言い方をすれば、番犬のように 母親を守っているという感じがしましたよ」といわれました。

思えばその後、番犬のように母を守ろうとした剛平が守りきれないと感じるようなライフを歩いてしまった事を思い起こし、いまさらながらすまない気持ちで一杯になります。

また、視察された先生方はきっと大きい教室に発展するでしょうと言われましたが、その期待も裏切ってしまいました。

それは私の運営能力の不足もありますが、子供にドリルを打ち込むように繰り返しのワークシートを与えて指導する教育法に心底共感できなかったことがあります。

私は実際 私の子供に勉強を強要しませんでした。 私のしたことといえば 夜寝る前に絵本や本を読んだことです。子供の小さい頃、夫の帰りはいつも遅かったので 私達は布団に川の字になり、恵が出来てからは四本線になり 本を読み聞かせました。

「ハイジちゃん」や「幸せの王子」などの物語を読む時は、私の方が泣いてしまって読めなくなり、子供に叱られました。 

剛平や恵とはよく一緒にアートをしました。 聡平とは 望遠鏡で夜の星を見たり、日食の観察をしました。

公文のシートをするのを嫌がるという子供にどうしてもさせなくてはいけないという信念を持つことが出来なかったことが ビジネスとしての成功の妨げになりました。

それでも随分長い間 多くの子供達の力をつけることが出来たことを感謝しています。 

話が随分それてしまいました。
 
19871月、聡平は12年生を終えて、HSC(高校終了資格テスト)の結果を待っていました。

HSC12年生の秋、全国で一斉に行われます。生徒は全部で10単位以上に成るように受験科目を決めます。

聡平は数学4unit、化学2unit、物理2unit、日本語3unit、そして英語を取りました。 英語は不得意の科目でしたが、志望するNSW大学医学部で英語を必須としていたため 英語も受験しなければなりませんでした。 ただし受験科目の中で 最も得点の悪かった教科は除いて計算されるので 聡平は不得手な英語はほとんど真剣に勉強しませんでした。

毎年、1月の末 HSCの結果はシドニーモーニングヘラルド紙に掲載されます。その年、聡平のNSW大学医学部の合格が発表され、それを見た友達から祝いの電話も受けました。

ところが 受験手続に行った聡平から電話がありました。合格はしたんだけど。。。とはっきりしません。

家にもどった聡平の話によると合格はしたのだが 計算に入れられないはずの英語の得点が合格点に届いていないため 一年間テクニカルカレジで英語だけを勉強して翌年英語だけを受験するように言われたのです。 一番得点の低い教科を除いて計算されると言うルールがあるのに何故その得点が問題になってしまったのか。。

私も驚きましたが、聡平はよほどショックだったのでしょう。自分の部屋に入って布団にもぐりこんでいました。

日本人の方の中にはその話を聞いて それは人種差別だという人もいました。理系に強いアジア人の締め出しだと。。

私は NSW大学医学部の部長に面会を申し出ました。

部長は快く私を迎えてくれました。 

規定では最も得点の低い一教科を落として計算されるのに 何故英語の得点が問題になったのか、何故入学に条件が付くのかと私は質問しました。(いざとなったら刺しちがえる覚悟で。。?)

部長は医学部では英語が必須になっていること、そしてもし必須の教科が合格点に達していなければ極端な話、零点であっても良いということになる。必須である以上合格点が必要だと思わないかと 丁寧に説明してくださいました。 

私は突然その言い分を納得し 部長に言いました。

「私は この措置が不公平から来るものではないということを確信したかったのです。納得がいかなければ息子を励ます事が出来ないからです」 そして「聡平が十分な英語力をつけて来年にはこのキャンパスで学べるようにします」といって強い握手をして家にもどりました。

私は納得してすがすがしい顔になり、こういうわけだからもう一年がんばりなさいといいました。

聡平は「やけに簡単に納得したんだなあ」とぶつぶつ言ってましたが、本人も嫌いだからといって全く勉強しなかった自分を反省してもう一度やる気になったようでした。

でも 英語一教科だけを一年勉強するのは嫌だといって結局もう一度12年生を繰り返し、すべての教科をやり直したのでした。

HSCまでに八ヶ月くらいしかありません。 果たして英語力を急にどうやってつけることが出来るのか問題でした。

ニュージーランド人の友達が良い人がいるといって紹介してくれました。

それはビッキーという若いオーストラリア女性でした。

彼女は初対面の日、聡平に一冊の本を渡しました。次までに読んでいらっしゃい。その次は2冊、3冊とただペーパーブックを持ってきて次から次へと読ませるのです。エッセイの書き方、コンプリヘンション等いっさいしない。 試験までの八ヶ月くらいの間に100冊くらい読まされたといっています。 その後聡平はネーテイブに引けを取らない英語力が身に付いたといっています。 こうして 聡平はその年、同じく12年生で薬学を志望する剛平とともに再度HSCに挑戦しました。
 

1988年は オーストラリアの建国200年の年でした。

国中が建国記念のお祭りに騒いでいる時、私は思いがけなく原住民問題に関わることになりました。

その時のことを日本に送ったメッセージのなかに下記のように記しています。

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昨年(88年)は オーストラリアが建国200年のお祭りに明け暮れた年でした。

様々な催しのいくらかは日本にも報道されたと思いますが、先住民アボリジニの至上最初、そして最大の抗議運動が行われたのをご存知の方は多くはないでしょう。

偶然にもそれに大きなかかわりを持つことになったいきさつを 新年のご挨拶を兼ねてお伝えしたいと思います。

オーストラリア建国日(1月26日)を数日に控えたある日、某教会の牧師様から 日本から来迎した一女性の通訳を依頼されました。 とりあえず 教会本部に駆けつけてみと、彼女は北海道出身のアイヌ女性で 日本の先住民としてアボリジニの抗議運動を支援するために来濠したことが分かりました。 日常生活のお手伝いならともかく抗議集会のスピーチや会議の通訳となると 遺憾ながら私の力の及ぶところでないのでもっと英語力のある人を探してみましょうと約束し 家に戻りました。 さっそく心当たりの友人に依頼の電話をしたところ 案に相して引き受けてくれる人はいません。その理由は次の通りです。

*漸くこの国に定着しようという時に、反体制運動に関わって不要なトラブルに巻き込まれたくない。

*我々は政府から不当な扱いを受けたことがないのだから 政府にたてつく様なことはしたくない。

*そもそも私の夫は体制側で生きている人ですから。。

*だいたい先住民問題など 問い始めたらきりがない。

その上貴方もブラックリストに載らないように気をつけなさいよという 助言まで頂きました。 

受話器のまえで途方にくれている私に 長男聡平が言いました。

「この件に関わるような日本人はおそらくいないだろう。僕がやるしかないだろう。」

このようなわけで 長男と私は、アイヌ女性 小川早苗さんとともにアボリジニ抗議運動の一部始終を見ることになりました。

はじめは 異国で言葉の不自由な一アイヌ女性の一助にという気持ちで関わったものの ラ・パールーという公園にテントを張って何日もの間の野宿、オーストラリアから集まるアボリジニを一つにまとめ、暴力のない静かな抗議運動を実現しようと必死に努力している若い指導者達、又、ひたすら平和穏健を愛し、一部の過激派に対し 切々たる抗議をする北部地域の素朴なアボリジニの姿を見るにつけ 次第に私の胸にも強くこの運動の成功を祈る気持ちがつのって参りました。

1月25日 オーストラリア建国前夜、テレビではにぎやかにチャールズ王子とダイアナ妃の訪濠、 そしてエンターテイメントセンターでの華やかな公演が放映されていました。 この公演には各界著名な人々が招かれているといいます。私は今、この名誉に預かるにはほど遠く、社会の歪にある弱小アボリジニとともに建国の日を迎えようとしている。・・・自分は人生の落伍者なのだろうか。 天国に眠る父は この私を嘆いているのだろうかと 心が翳りました。

その夜、何気なく手にした書物「新約聖書、私のアングル」(速水敏彦著)の中で イエス様は義人のためでなく 罪人(当時、地の民と呼ばれた社会から差別され、切り捨てられて 生きていた人たち)のために来たのだという言葉に触れ強い勇気を与えられました。

26日、 建国の祭りが華々しく繰り広げられる時、アボリジニ組織本部のレッドファーンから 集会のハイドパークに 向かって行進が始まりました。世界各地からの弱小民族も支援参加し、種族アボリジニを先頭に総勢四万人の大群衆が静かに 実に静かに行進しました。 それはMoan・・・まさにうめくような行進でした。

Let’s celebrate ’88, if we can do it together.”というポスターをかかげた 白人の顔を見た時の感激。 

アボリジニの大集団の後には 支援の白人がなみなみと行進に続いていました。これを利用した便乗要求のプラカードはいっさい見当たりませんでした。 大群衆とともに歩きながら かって読んだ様々の書物が脳裏をかすめました。

英国王室を招いてのきらびやかな建国行事とアボリジニの対比は オスカーワイルドの’若い王子’を、そして 自己の利益のために反対運動に関わることを拒んだ日本人の姿勢は 芥川龍之介の’蜘蛛の糸’を想起させます。

聖書にある 金持ちとラザロの話(ルカ伝16章19節)が心に染みました。すでに聖書の中にそして多くの文学の中に そのことは語られていたのです。

ハイドパークでは 「白人と黒人の調和の下にーー」とうたい唱える若き指導者のリードで感動的な大会がすすめられました。

四万に及ぶ群集が 一つの騒ぎも暴力もなく静かな抗議を表したこの出来事は、関わった者の心を強く捉え、証言の使命を感じさせるものでした。

胸に痛みを覚えるが、私には何も出来ないという私の嘆きに インド人のラジールは 

「何も出来なくていい。私たちのために胸を痛めてくれる人が一人でもいればいい。」と慰めてくれました。

常時、言葉をかみ締めるように通訳していた聡平は 若き魂に大きな衝撃を受け、その心中を語っていました。

「金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るよりむずかしいというが、あれは本当だね。 あの人たちはきっと一人残らず天国に行くよ。」

離婚して三年、ともすれば自分の運命を悲嘆し、信仰の揺らいでいた私でしたが、この世の宝をすべて失ったがゆえにこの尊い経験を得、弱者のために痛める心の残っていたことを感謝せずにはいられませんでした。

すべての行事を終えたとき、アボリジニのリーダーの一人から 支援をありがとうと感謝の言葉を受けましたが、私は心の中に「感謝したいのは私のほうです。救われたのは私なのです。」と答えていました。

数日後の29日、聡平はNSW大学医学部、剛平はシドニー大学薬学部にそれぞれ合格が発表されました。 合否発表のまえに反体制運動に関わることに不安はなかったのかと聡平に訪ねたところ、「僕はオーストラリアが好きだから信じられるんだ。」と申していました。

オーストラリア・・ 先住民問題を抱えながらも 四万の群集の平和な行進を可能にした国、九年の濠州生活の間、常に私たちを暖かく包んでくれた国、私もオーストラリアが本当に好きです。

建国200年のこの年は、私がこの地に骨を埋める決意を新たにした年であり、長い間 わが心を支配した祖国日本への郷愁を断ち切った年でもありました。

シドニーの空は、今日も限りなく青く、私たち親子四人、幸福をかみ締めるこのごろ、多くの人によって支えられてきたことをしみじみ感じます。 

これからもどうか私たちを覚えて祈ってください。

新しい年が皆様にとって素晴らしい年となりますよう祈りつつ・・・

1989年1月

恵まれた環境に生まれ育った私が弱者、被抑圧者と出会った経験は心の奥深く刻み込まれ社会の歪に目を向けることになりました。

自分自身が父の娘であった時と 中川の妻であった時と、離婚の経歴を持つシングルの女性になったときと社会の中での自分の存在が違ってきたことで 既成社会の価値観に批判的になり、子供の頃一度もなかった反抗期が起こってきたのです。正義感が反抗心となったとき、人間は間違った道を歩んでしまうのです。