誤った使命感
離婚して三年の月日が流れていました。
一人になっても 父や母の庇護のもとにいた若き日に戻れるわけではないそんな思いをひしひしと感じていた頃です。
そのころ私は公文事務局で働いていたとし子さんというご主人をなくされた女性と親しくなり、独り者同士よく食事などに一緒に出かけました。
ある日、私たちはシドニー湾セーリングの体験という広告を見て参加しました。
すでにお話したようにオーストラリアでは裕福な人は自家用のモーターボートやセイリングボートでオーストラリアマリンライフを楽しむのですが、このように持たざるものでもそれを体験できる企画があるのです。
青空の下、広い海をすべるように進むセイリングの旅は格別でした。 モーターの音がないので波の音が聞こえ、手を伸ばせば海水に触れることができるのです。 船を海岸につけて持ち寄りのランチを食べ ビーチでボール遊びをしたり、まさに楽しいことの好きなOZのライフスタイルです。
私はそこでこれまでのライフで接することのなかった人たちに出会いました。 それはワーキングクラス(Labourer)の人です。
実はその頃 私は、人間というのは持てるもの(地位、名誉、学歴、幸福、道徳観にいたるまで)の分だけ高慢になるものだとシニカルに考えるようになっていました。 少し心がひねくれていたのでしょう。
日焼けした真っ黒な顔と暖かいハート以外にさして持てるもののない人たち。 自分自身が既成社会の価値観からはみ出して寂しい思いをすることがあった私は、彼らから励ましと希望と力をもらったのです。
彼らはこれまで私が過ごしたオーストラリアライフでは出会うことのなかった人たちでした.
まず 言葉が違うのです。 私はオーストラリアに来て初めてスラングやスウェヤーワードを聞きました。
彼らのよく使う言葉の中にBull shitという言葉があります。 ダイレクトには牛の糞という意味なのですが、噓、虚偽、虚栄、虚飾という意味にもなります。
私は、彼らはつまり虚飾や虚栄や見栄のない世界と感じました。
ちょうどその頃、長兄の娘、純子ちゃんが日本からワーキングホリデービザで来濠していました。 私は純子ちゃんと一緒に彼らの仲間に入りました。
私はオーストラリアの強い紫外線を避けるため、大きなつばの帽子をかぶってサングラスをかけていましたが、彼らは帽子を取りなさい、サングラスを取りなさい、太陽を浴びようといって老化を気にしてびくびくしている私に言いました。 ずっとうつむいて歩いていた私に顔を上げるよう教えてくれました。
オーストラリアでは知識階級の中で煙草を吸う人は少ないです。 愛煙家の兄は知的労働者がタバコを吸わなくなった国は滅びると言っていましたが、ここでは知識階級は本当に吸いません。 しかしこのレーバーラーズ仲間は煙の中で生きているようなものでした。そしてその煙にはしばしばマリワナが混入するのです。
そんな危険な世界に私達は飛び込んだのです。 今から考えるとよくそんな危険を冒したものだと思いますが、本当に少しも怖いとは思わなかったし、実際ちっとも怖い人たちではありませんでした。
彼らの中にはマリワナをボンベで吸っている人もいました。 ボンベにはもみじのような絵が描かれています。
私は「それ、カナダ製?」と聞きました。
「Why?」
「だって かえでの絵があるから。。」
その場にいた人はみんな大笑いをしました。 それはマリワナの葉っぱの絵だったのです。
このようにしばしばトンチンカンな会話をしながら 彼らは新風吹き込むような珍客を大切にしてくれました。
彼らが私達にマリワナを強要するようなことは決してありませんでした。
たまに私を知らない人が勧めると
「彼女にはGodがいるからいらないんだ」 と 誰かが言うのでした。
確かに神様を信じていればこのような違法で高価なものを使って現実逃避する必要はないのにと私は思いました。
でも。。。しかしいったい彼らをどこの教会に連れて行けるだろう。。私は ノースショアーの私の通うタラマラの教会を思い起こしながら考えました。 場違いとはこのことです。
彼らの中に ブライアンという人がいました。 彼は保釈中の人でした。
何かの理由で起訴されているといっても 最も分別くさく見えるので、私は本人の言うように悪人と闘ったと信じていました。
ある日 私は純子ちゃんと一緒にブライアンの家にランチに招かれました。
そしたらなんとリビングルームにカナリアが自由に飛んでいるのです。 私は「ギャー」という叫び声を上げて外に飛び出しました。 純子ちゃんも続きました。 私と純子ちゃんは鳥恐怖症なのです。(鳥恐怖症という変な持病を純子ちゃんも持っているとは知らなかったのですが.。)
危険は加えない、大丈夫といわれても恐怖症は恐怖症。 とうとう彼は玄関の小さなスペースにテーブルを運び込んで食事を運んでくれました。
彼は田舎で育ち 家には牛や馬など動物や鳥が一杯いたんだそうです。
「どんな生き物もケージに入れたり、鎖につないだりしたくない」 というのが彼の持論でした。 しかし それからまもなく彼は自分が鎖につながれケージに入ることになったのでした。
彼らはおおむねビルダーとかメカニックなどのライセンスを持って仕事についているレーバーラーでしたが、中には何の資格もなく工場などを転々とするものもいました。
ギャリーもその一人でした。
そしてその頃彼は失職中でした。
出会った人や事柄を素通りできないという性格から私はその後痛い傷を負う事になるのです。
それらのいきさつは 当時日本に書き送ったメッセージに記されているので読んでください。
さてわが人生ーーー
娘の頃に反抗期のなかったなかった私は、今頃になってふつふつと社会へのレジスタンスを覚えるのですが、社会運動や慈善活動をしているわけではありません。 私はそれほど社会的ではないのです。 ただ自分の人生で遭遇した人や事柄に、駆け引きなく自己の100%で関わってしまう。 それが必ずしも正しい判断を伴うとは限らないのですがーー。だから私が知り合った友達の一人ギャリーが失職し、家を追われ、路頭に迷っている時、素通りすることが出来ませんでした。 子供時代を他人の家のガレージで暮らしたというほど貧しく、教育は低く、したがって何の資格もなく 安定した職業に就けない。 失職、転職の繰り返しと不運のために、人生に投げやりで、心の隅々まで卑屈でした。 私は心から新生を願いました。
微弱ながら助けもしました。(これがきっと大きな誤りだったのでしょう) 彼は希望を持つどころかますます自信を失い アルコールとドラグに逃避してしまう。そして安易な収入の道としてドラグの売買に手を出し、失敗し、プロに命を狙われるようになる。(小説みたいですが、本当なのです) 私は人間一人の命に代えるためにお金も作りました。彼の仲間からは”He is
hopeless. Forget about him.” と忠告されました。
“I don’t
think anyone in this world is hopeless.”
友達からは「人間を変えようなんて傲慢よ」と厳しい批判を受けました。
「新生を信じずしてキリスト教はありえない」
99匹のたとえ話が身に染みました。
多くの友や愛する子供に囲まれながら、たった一人の人間の命と魂の救いをあきらめることが出来ない。 同時に、自分自身迷える子羊である私も見捨てることのないキリストの愛を全身に感じました。
気が付いた時には 私自身が借金でがんじがらめ、もう私に出来ることはなくなってしまいました。 いやひとつだけ出来ることがある。
「祈り」 人間が他の人間に出来ることは、所詮、祈りしかないのです。
人間を信じたいという私の切なる願いに、光を与えてくれた人がいます。
現在服役中のブライアン。 彼を知ったのは判決の出る前でした。が、あるとき、彼は私に尋ねました。
「人間は許されるのだろうか」
「私は牧師じゃないからよくわからないけど、貴方がそれを問うたときから、貴方はもう神様に許されていると思う」 と私は答えました。
それから彼はまもなく判決を受け 遠い地に送られました。 一年後 シドニーの刑務所に移された彼を訪ねた時、私は修業僧のように清廉な彼の顔に驚きました。 世の中には不思議なことがあるのです。 入所当初、独房に入れられた時、一冊の聖書が残されていたのです。(備え付けられていたのではない) 外に出ることも許されず、彼はその聖書を何度も何度も読んだそうです。
「セシリアが心の100%で一人一人の人に接してきたことは、自分をはじめとして、それぞれの人の心に深い影響を与えているだろう。 セシリアなくして今の自分はない」
精一杯生きているのに、借金のだるまになって、自分の愚かさを嘆いていたので、うれしい言葉でした。
この歳になるまで、何の力もつけず、道も究められず、いまだ混迷の中にありながら、このごろようやく 自分の人生のテーマのようなものがわかってきました。
「人間愛」
子供達は、この迷える母にも関わらず、それぞれまっすぐに成長しています。 本当に感謝です。 きっと神様が、私に代わって守り育ててくれているのでしょう。
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まっすぐ育っていると思ったのは私の誤りでした。 子供達はそれぞれ心の奥深く傷ついていたのです。痛みを覚えていたのです。
さて 話の続きです。
プロつまりキングスクロスのビッグボーイズに命を狙われるようになって 悲壮な声で助けを求めたギャリーに私は身の回りの物を車に載せるように言い、彼をノースショアーのオーストビレジという欧米からのバックパッカーや日本人ワーキングホリデーの人たちが利用するアコモデーションに連れて行きました。 これまで何人もの人を紹介したり、姪が泊まったりしているのでオーナーのボリスとは顔なじみでした。
キングスクロスのビッグボーイズの手もさすがここまでは届きませんでした。
ノースショアーというのは環境の最も良い地域と言われ 日本人駐在の方が多く住まいするところなのです。
その後も仕事は見つからず自信を失うばかりのギャリーを私は遂に公文教室で使うことにしました。 ちょうど教室は教会のホールから貸切教室に移ったばかりでした。
教室日は日曜を除いて毎日となり、生徒数は合計300人に上るようになっていました。
助け手は必要だったものの ギャリーはかってドラグの経験もあり、アルコール、スモーキングの悪癖も通常ではなく 仮にも人の子供を預かる教室に出入りしてよいのかと不安であり、また賭けでもありました。 私の子供等から反対を受けたのは言うまでもありません。 子供達は本当に心配していたでしょう。
当時の公文局長であった青木さんは数学一筋の地味な方でギャリーの雰囲気が教室に似つかわしくないという事に気づかれなかったのかクレイムを受けることもなく また奥様は公文教室の指導しておられたのですが、実に気さくで缶ビールをそのまま飲むようなオージースタイルを好まれて ギャリーとも馬が合い、この無謀な試みも案外うまく行ったのです。
そして意外にも 彼は生徒や母親から慕われました。
しかし公文教室の経営とは実に零零細ビジネスです。 生徒数は増えたのですが、人間一人を完全雇用するには無理がありました。 そして経営は見る見る苦しくなっていったのです。
それにもう一つ私の心を暗くすることがありました。 彼の飲酒、喫煙やマリワナのアデイクションは一向に直らなかったのです。 一人の人間を更正するなどということの至難なる事を悟りました。
私は遂に解雇を決意しました。
その時受けた怒りと恨み。 どんなに長い間 助けたとしても最後に見捨てなければならなくなったとき、そこには怒りと恨みしか残らないのです。
しかし人生とは時に実にドラマチックです。
公文の教室で彼のために開かれた送別会の日、沈鬱になるべきその日の朝、彼は新しい就職が決定したのです。
長い間 私が助けたいとむきになっていたとき、彼は何度試みても仕事に就くことが出来ませんでした。 私が力尽きて見捨ててしまった時、(いや 見捨てられたと知って本人が 遂に立ち上がったとき、神は手を差し伸べられたのです。 神の摂理のなんと深いことか。。私は自分の無力を知って 傲慢に成ることを免れたのです。
社会に反抗的になっていた私は、人を助けること(自己犠牲)によって 挫折だらけの自分の人生に価値を見出そうとしていたのでしょう。
ドラグアデイクトの失業者を公文の教室に雇用するなど良識的には明らかに誤りでした。 でも私はたった一つの出来事でそれを悔いてはいません。 私がギャリーにはかなわないと思ったことがあったのです。
それは公文の教室に知的障害のある5歳の子供が入会した時のことです。
私の目にもチーフアシスタントの幸子さんの目にもその子供の障害は明らかで私達は一体どうやってこの子を指導できるのだろうと心のうちでは案じていました。 しかしギャリーの目にはその子の障害が見えないのです。ただわがままに育ってしつけが出来ていないと感じるだけなのです。 ギャリーはその子供を抱きかかえて教材を片手に熱心に指導しました。それはもう根気良く。 そのうちその子は「ガリ、ガリ」といって教室の中でギャリーを追い掛け回すようになりました。 しばらくしてその子供の通う施設から成長の跡が著しいのでどのような指導をしたのか報告してほしいという依頼を受けました。 ギャリーは張り切ってその報告をしたためました。
教育は相手を信じた分だけ可能にするという教訓を見たようでした。 考えてみると ギャリーの更正の可能性を一番疑っていたのは私だったのかもしれません。
人間の生まれ持った能力の違いや環境の不平等による社会の歪をどうすれば良いのか回答は得られないまま 私は長い回り道にようやく終止符を打ちました。
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