豪州奮戦記 (その1) 日豪プレス12月号
シドニーにまた暑い夏が来た。 この国では日本と逆に暑さに向かって師走を向かえる。
昨年、オーストラリアに来て始めての年の瀬を苦渋の中に迎えたことが思い出される。
私たちが渡濠したのは、世の中にある海外出張のように会社から派遣されたのではない。家族を上げて移住してきたのである。
私たちは三人の子供を持つ、ごく平凡なサラリーマン家庭を営んでいた。目だっていいことがあるわけではないが 安定した生活が保障されていたといえよう。
けれども子供が手を離れるようになって、私は次第に自分を、自分の半生を省みるようになった。自分には何もない。そう気づき始めるといてもたってもいられないような気持ちであった。自分の道を見出したい。自分を鍛えなおしたい。平凡で安泰な日常性を打ち破り、自己の成長を図りたい。それらの思いは次第に海外雄飛の夢となって膨らんでいった。それは若き日からの夫の夢とも一致した。私たちは日本脱出、海外雄飛を決意したのである。自分たちの夢のために子供らの人生をこれほど大きく変えてしまっていいのだろうかというためらいはあったが、それは決定的なブレーキにならなかった。
夫は長年勤めた会社を辞し、海外移住の可能性のある仕事を探した。やがてオーストラリアとの取引を始めるという某水産会社を知り、就職した。
まもなくワーキングビザが取れた。日本の家を売却し、オーストラリアに家を買う手はずも整えた。順調といえばあまりにも順調なことの運びであったと思う。
昨年5月1日、私たちは新天地オーストラリアに向かって旅立った。思い立ってから一年余りのことであった。
翌朝私たちを迎えたシドニーの空は暗く重く垂れ込めていた。それは私たちの前途を暗示しているかのようであった。
ホテルに着くや否や、夫は家の契約が滞っているということで、銀行など奔走しているようであったが、世事に疎く何もかも夫にまかせっきりであった私は、事態が困難を極めていることに少しも気づかなかった。
ホテルに数日を過ごし、やがて私たちはタラマラにある我が家へと移った。閑静な住宅街の奥深く、雨上がりの水をいっぱいにたたえた小川、うっそうと立つガムトリーや柳の木の枝の向こうに、赤いレンガ作りの家があった。それがはじめてみる我が家であった。
この国の習慣には引越しのあいさつ回りなどないと聞いていたが、私は手作りの紙人形のしおりを持って 近所へあいさつ回りに出かけた。隣家のキャロル、裏に住むシーラ、川向こうの同じくシーラ、みんな予想以上の歓迎ぶりを示してくれた。
裏に住むシーラは少し年配のせいか 世話好きで、自動車のない間はショッピングに誘ってくれたり、洗濯機のない間は洗濯機を使うように勧めてくれた。
日本から届いた荷物をとき始めた矢先のこと、突然夫は仕事が思わしくないとのことで帰国すると言い出した。渡豪してまだ一月にもならぬころである。手持ちのお金、わずか200ドルを残して夫は去った。日本に着き次第送金すること、一週間ほどで戻ってくることを約束して。。。
送金はなく予定の日が来ても夫は戻らなかった。事態を十分飲み込めぬまま 不安な日が過ぎていった。まもなく日本にいる母から電話があり すべての事情が知らされた。真相はこうである。
私たちを豪州に送った水産会社は倒産した。夫は渡豪前、経営状態の悪化した当社に日本の家を売却して得た一千万円を貸与したという。そのお金が返却されなかった為、夫は銀行から短期の融資を受け、家の購入の費用に充てた。私たちは収入の道を閉ざされた上に、巨額の借金を抱えた状態に陥ったのである。
母は荷物を捨て 身一つで帰るようにと言った。
私は子供たちの気持ちを打診した。
子供たちはどうしてもオーストラリアに残りたいという。
メイホリデー明けの学校が始まってわずか一月に満たぬころであったろう。なぜ子供たちがわずかな間にこれほどこの国に魅了されたのかわからない。中でも無口で、日ごろ自己を主張することのない次男が、目を真っ赤にして「日本に帰りたくない。どうしてもこの国に住みたい。」と言った。「ママがそんなことじゃだめだよ。もう少しがんばれよ。」と長男の言葉。。「あなたたちがこの国にいたいという限りママもがんばるわ。」
私は子供たちに向かって新たな決意をし、約束した。
私はすぐに仕事を探し始めた。
卒業後すぐに結婚し、社会経験もなく英語の力もない私の求職は容易なことではなかった。何の当てもなく 私の手の中にあった日豪プレス、それが唯一の手がかりだった。
私は一面識もない日豪プレスの発行者、坂井さんに電話をした。(思えば、自分のあつかましさに苦笑の限りではあるが その時は 無我夢中だった。)
坂井さんは、突拍子もない私の求職依頼の電話に親切に応じてくださり、職業紹介の仕事をしているM氏を紹介してくださった。
私は意を決して受話器をとった。
おぼつかない英語で事情を説明し、求職を依頼した。受話器を通して暖かい人柄が感じられ、どれほど心を強くしたかわからない。
M氏の尽力にもかかわらず、言葉にハンデイがあり、子供のために時間の制約のある私の職探しは容易ではなかった。
私はこれまで不用意にお金を使っていたが、その時は実に節約をした。 人間が生きていくうえで必要な物はそう多くはない。幸いなことにこの国では食料品が安い。私は日用の糧以外のものはいっさい買わなかった。少し気をつけるだけでお金というのは なんと使わずに住むことだろう。子供達も何一つねだろうとしなかった。子供ながらに事情を解していたのだろう。
やがて夫の宛ても不確かなまま7月に入った。7月は次男の誕生の月。 この国では子供達の間でバースデーパーテイーが盛んだ。子供達もそれぞれ友達のパーテイーに招かれていたし、仲良くしてくれた友達への感謝の気持ちもあって、ささやかなパーテイーを開くことにした。僅かな準備であったが七人の友達を招いた。私は 日本で覚えた「手ぬぐい回し」や「ゴロゴロドシャン」というゲームをした。
「ゴロゴロドシャン」 というのは円になって鬼がゴロゴロと雷の音をまねている間にみんながみかんを回す。ドシャンと落ちた時にみかんを持っている人が鬼になるというもの。
負けた人は罰”Punishment”が与えられますというと子供達は目を丸くして”Punishment!?”と驚いていた。
それもそのはず この国のパーテイーでは”Pass the parcel”や”Minty hunt”などプライズをもらえるゲームはあっても罰の当たるゲームはない。
スポーツの得意なデービッド君が罰を受けることになった。さあ、歌を歌ってくださいというと、”OK”といって”Come on OZ come !!”と大きな声で元気よく歌いだした。私はテープにそれを吹き込んで再生した。子供達は大喜びで我も我もと歌い始めた。
私は日本にいた頃、僅かながら子供と接する経験を持ったが、このような時、日本の子供達は決して歌わなかった。すると周りの子供達が文句を言い始め、楽しかるべきゲームが不快なものになることも多々あった。
大合唱をしている子供らを見て、なんと屈託のない子供達だろうと驚いたものだ。
パーテイーが終わって幾日もの間、学校では子供達が”ゴロゴロドシャン、ゴロゴロドシャン”といい続けていたというから お金のかからないバースデーパーテイーも案外楽しかったのかもしれない。
離豪して40日目、夫は戻ってきた。40日といえばそれほど長い期間ではないかもしれない。しかし 移り住んだばかりの異国に子供達と残されたあてのない40日の一日一日の果てしなさは筆舌につくしがたい。
女は男が仕事で一ヶ月を必要とするなら、一ヶ月を待つ。半年が必要なら半年を待つだろう。予定された期間が一年でも、二年でも待つことが出来る。しかし期日が過ぎ、連絡の途絶えた時間とその不安は一日でも果てしないのである。
夫が戻り 家庭は元に戻ったように見えたが 何かが違ってきた。私が強くなったのである。
娘の頃は両親に、嫁しては夫に頼ることしか知らなかった 末っ子の甘えん坊が 一人で歩くことを覚えたのである。
豪州奮戦記 (2)
奮戦記を続ける前に 私の家族を紹介したいと思う。
夫 ジョン 中川靖平 38歳
長男 デービッド 聡平 11歳
次男 サムエル 剛平 10歳
長女 マーガレット 恵 7歳
そして私はセシリアとも言う。
何故こんな妙な名前があるかというと 私たちはもともと英国国教会に属するクリスチャンで、これらは洗礼を受けた時に名づけられた洗礼名なのだ。
この国では洗礼名で呼ばれることが多い。(ただし長男聡平は学校のクラスにデービッドという名前の子供がすでに4人もいたので Sohei と呼ばれた)
私たちはこちらに来て間もない頃から タラマラにあるSt.James 教会に行くようになった。
ある日 私たちの状況を知った当教会のリチャードソン司祭が訪ねてきた。
「私たちの教会には 困った人を助ける組織があります。日本の方は大変プライドが高いと聞くので、失礼と思われるかもしれないが、もし経済的に困っていられるようなら援助したいと思う。」といわれた。
私はありがたい言葉に感動しながらも 自分たちで頑張ってみますとお断りした。
リチャードソン司祭は 「それではお祈りをさせてください」といわれた。
そしてゆっくりした英語で祈り始められた。
「どうかジョンに良い仕事が与えられますように。。セシリアのすべての働きに恵が与えられますように。。。子供達の一人一人が一日も早く英語を覚え、たくさんの友達が与えられますように。。。」
私は祈りの言葉を聞きながらポロポロと涙が頬を伝いとめることが出来なかった。
九月になった。
長い冬の間寒々と枝をたれていた柳の木に、いっせいに目が膨らんできた。庭のあちこちに勿忘草が可憐な花を咲かせていた。オーストラリアの春の訪れである。
そのころ、長男聡平の日本の学校での元担任の先生から聡平へ励ましの手紙が届いた。
「冬着たりなば春遠からじという言葉があります。 先生はこの言葉が好きです。どんな厳しい冬でも、その後に必ず春が来るという意味の言葉です。どうか苦しいことに負けず頑張りぬいてください。」という旨のものであった。
その言葉をうらずけるかのように、我が家の冬にも雪解けの音が聞こえてきた。
九月九日、かねてから夫の就職の件で難航していた某会社(オパール販売とデユーテイーフリー)の社長から 私ともども自宅への呼び出しがあった。 この仕事は職業紹介業のM氏から夫へ紹介されたものだったが 社長と夫との数度の面接の度に話が決裂していたので 私は悲観的な気持ちで同行した。
社長から社歴や仕事の内容について説明を受けたあと、夫は「翌日から出社せよ」との言葉を受けた。 私はあまりに唐突な決定に茫然とし、しばしその言葉を信じることが出来なかった。
しかしそれは夢ではなかった。 渡豪して五ヶ月あまり、ようやく夫に新しい仕事の道が開かれたのである。
豪州奮戦記 3
夫の就職で収入のめどは付いたものの、借金の返済に住み始めたばかりの家を売らねばならなかった。
すでに7月半ばから売りに出しており、朝夕を問わず家を見に来る人が絶えず、落ち着かなかぬ生活が続いていたが、一向に買い手は付かなかった。
そんな折、学校で低学年の児童を対象にはじめた折り紙教室は、週一回の僅かな時間ではあったが 私にとって何よりの楽しみとなった。
教えたばかりの”コンニチワ”と私の名前がごっちゃになって、”ハロー、ミセスコンニチワ”と元気良く挨拶する子供達、子供達はみんな可愛くて ともすれば沈みがちな私の気持ちを慰めてくれた。
9月になってようやく家を気にいった人が現れ、価格も合意した。私達はこの国の売買システムなど良く分からないので契約の進行をいっさいを弁護士に任せた。
私はさっそく移るべき家を探し始めた。より安価な家を見つけようというのだから贅沢はいえないものの少しでも良い家を見つけるべく駆け回った。
ノースタラマラに真っ白な木(木であるがゆえに安価な)の家が見つかった。その旨を弁護士に伝え契約の進行待った。
順調に行けば 年内には引越しできるだろう。私たちは早くも新しい住まいとなるべき家にささやかな夢を馳せた。
ところが幾日を過ぎても一向に事の進展する様子がない。弁護士を通して催促をしてみたが、買い手からはもう少し待ってほしいという返事ばかりであった。家が売れなければ買うことが出来ないのである。
そのうち 私達が希望する家の方から もうこれ以上待つことは出来ないとの通達があったため、私達も契約の期日を定めた。すでに11月下旬の頃である。期日には何とか契約が為されるようにと祈る気持ちであったが、当日 弁護士から受けた知らせは先方からのキャンセルだった。
そんな馬鹿なと地団駄踏んでも無駄であった。契約の交わされていない私達には憤る資格もなく 私達はただいたずらに時を逸してしまっただけなのであった。
ここで この国の(正確にはNSW州の)家の売買のシステムについて説明したい。
まず、不動産屋を通して、或いは直接に売り手と買い手の間で価格の合意を得ると すぐにそれをそれぞれの弁護士に報告する。次に双方の弁護士を通してコントラクト(契約)が交換される。その時買い手は家の価格の一割を納入する。買い手のほうからこの契約を破棄した場合、そのお金は売り手のものとなる。コントラクトを交わして通常6週間の間に 買い手は残りの金額を納入し、売買が成立する。 これをセトルメントという。
家の売買において 言葉の上でどんな約束があっても コントラクトが交換されていなければ 何の意味もないことを私達は知らなかった。
注 今振り返ってみると こんな基本的なことを知らされないでいたというのは 弁護士の怠慢ですね。ちなみに私はこの件を含めて計7回の家の売買をしています。
私達は 通常のセールをやめ家をオークション(競売)にかかけることにした。
オークションというのは一定の日時をインスペクションデイー(人が見に来る日)と定め、できるだけ多くの人に家を見せ、指定した日に競売にかけるというもの。
12月10日、競売の日の前日 夫は弁護士から呼び出しを受けた。良い価格で希望する人がいるというのでオークションを待たず即座に承諾することを勧められ契約した。
もう街はクリスマスの準備ににぎわっていた。
祖国を離れて初めてのクリスマス、家の契約が為されただけは幸いであったが、落ち着かぬままのわびしいクリスマスであった。
クリスマスの前夜、私は子供達とともにささやかな祝いの膳を囲んでいた。突然、玄関の戸をたたく音がする。いまどきなんだろうと不審に思いながら扉を開けると、折り紙教室の小さな男の子が立っていた。そして私に白い封筒を差し出したかと思うとあっという間に駆け出してしまった。封筒にはクリスマスカードがあり、その間に白いレースのハンカチが入っていた。
カードには
”Thank you for the lovely Origami, from David Holland”
とたどたどしい字で書かれている。
私は胸のうちが熱くなるのを感じた。 今だかって これほど心温まる贈り物を受けたことがあったろうか。。この小さなプレゼントは、私にとって どんな高価な宝にも勝る素晴らしい贈り物であった。
クリスマスも終わり、私はまた家探しに忙しかった。
今度はウルンガに感じの良いレンガの家を見つけた。条件のわりに大変買い得な価格であったがそれには理由があった。
一つには近くに高速道路が建設される予定であること。
もう一つは通常 契約時に支払われる契約金は銀行に保管され、セトルメントが完成するまで誰も手がつけられないようになっているのだが、売主がそれを緊急に使用したいというのである。私達は弁護士に呼ばれこまかい説明を受けた。万一先方の都合で契約不履行になった場合、すでに契約金は使用されているから返済されない場合がある。裁判にかけたとしても 大変面倒なことになるので、弁護士の立場からは勧めることが出来ない。他の物件を探したほうが良いと思うという話であった。
私はその後も家探しに奔走したが、同価格の家と比べれば比べるほど 条件の違いは明らかだった。
私達は弁護士の再々の忠告を押し切って 年明けた正月2日に契約を断行した。
後はセトルメントの無事を祈るばかり。1月下旬にセトルメントが予定された。
セトルメントが完了すると その家は買い手の物となるため 売り手は直ちに家を明け渡さねばならない。
そこで私はさっそく運送会社に依頼し、引越しの準備を始めた。その矢先、弁護士からセトルメント予定日の変更が知らされた。私はまた引越しの日時を変更しなければならなかった。このようなことは数回起った。あるときは家の前までトラックが来て帰ってもらったこともある。
何故このようなことが起こるかというと、普通、家を買う時はよほど金銭的に余裕のある人を除いては 自分たちの住んでいる家を売り、別の家を購入する。したがって 自分の家がセトルメントされない限り、次の家もセトルメントできない。 私達の場合、8件先で滞っているという話であった。
注 今では 家を買う時には まず銀行からの Loan Approval を先にとるのでこのような不都合はあまり起こりません。
私は詳しい説明を受けるほど いらいらするばかりで、{ああ、ママはもう気が狂いそうよ!」と子供の前で叫んだ。
聡平が「ママ、この本読んで見なよ。狂いそうなのがきっと直るよ」 といって、一冊の本を差し出した。
書名は”ぽっぺん先生の動物辞典”
「僕はね、こんな本ばかり読んでいるから 何が起こっても狂わないんだよ」という。
本当かしら。。? 私は半信半疑で読み始めたが、ぽっぺん先生とともに、動物達の話を聞いているうちに、世界の人間の悩みとは遠くかけ離れた世界に入り込んですっかり気分が楽になった。
成らずんば 成るまで待とうセトルメントーー
私は腹を据えなおしてセトルメントを待った。
2月30日 3時30分 今度こそ間違いないでしょうと弁護士からの通達があった。
当日、荷物はトラックに積み込まれ 午後3時過ぎ、新しい家の前に着き、門前にトラックを止めてセトルメントの完了を待った。
3時40分 弁護士から 売主にセトルメント完了の報があり、門戸は開放された。
私達は 歓喜の声をあげ、荷をおろし始めた。
子供達も荷物運びの手伝いをし、門前にて、庭先で 顔を合わせるもの同士が「おめでとう」と握手を交わしたり、「本当だろうか」とほっぺたをつねりあったり、大騒ぎであった。
荷物の山の中で夕食を囲みながらも、子供達は「夢だろうか」 「夢なら醒めないと良いね」と語りあっている。 興奮と喜びの渦の中で 引越しの夜は更けていった。
豪州奮戦記 最終回
シドニーの夏が終わろうとしていた。
学校では過ぎ行く夏を惜しんで水泳大会が行われていた。
この国では 必ずしも学校にプールがあるとは限らないのだか 幸いにして子供達の学校にはプールがあり、毎土曜日、父兄の奉仕による水泳指導が行われていた。
私の子供達もそこで熱心に指導を受けめきめき上達していった。
子供達の学校の水泳大会では聡平、剛平ともに好成績を収め、聡平は自由形及びリレー、剛平は平泳ぎの代表選手として、地区大会(デイストリクト)に進出することになった。地区大会はホンスビーの野外プールで行われた。
応援席は学校別で区切られ、父兄は応援に熱した。
聡平、剛平とも善戦むなしく四位に終わったが、聡平のリレーチームは二位に食い込み、地域大会(エリア)に進出することになった。
地域大会はノース地域の10地区を代表する選手によって競われる。
もうすでに風が肌寒く感じられる頃であったが、大会はフレンチフォーレストの屋内プールで行われた。
さすが、地域大会ともなると、場内は興奮の熱気に満ち、緊張感がみなぎっている。
競技は自由形から順次進められ いよいよ終盤、地区を代表する学校の対抗リレーになった。 聡平は第二泳者。競泳台に立つわが子の姿を見ると、目頭が熱くなってくる。
私達はこの国に来てから 子供達に一体何をしてあげただろう。 つらいことのほうが多かったではないか。それでも子供達は不平の一言も洩らすことなく、それぞれの道を懸命に歩んできた。。。 そんな感慨に耽っているうちに、第一泳者は泳ぎ着き、いよいよ聡平が飛び込んだ。 私は思わず目を閉じて祈った。
「神様どうか 聡平の水泳パンツがずり落ちませんように!!!」
他の子供達のカラフルで身体にそった水泳パンツに比べ わが子の日本から持ってきたスクール水着は、いかにも頼りなく、ずり落ちそうに見えたのだった。
さて、半信半疑で住み始めた家も 何の問題もなく、どうやら本当に私達の家になったようであった。
そんな矢先、誰からともなく、足にかゆみを訴え始めた。 子供達の足にも私の足にも赤いぽつぽつが一杯。痒くて痒くてたまらない。 絨毯をあげてよく見ると、小さなノミがぴょんぴょんと元気良く飛び跳ねている。
それにどうも台所の様子がおかしい。
封を開けないビスケットがかじられていたり、紙袋に穴が開いていたり、、そのうち 夜な夜な天井を駆け巡るネズミの音が聞こえてきた。
ノミとネズミ。。。 ああ、すでに日本では絶滅したとさえ思われる生物がこの国ではなんと元気良く活躍していることか。。
しかし、多少の苦渋をなめた私にはノミもネズミも驚くには足りない。 一緒に暮らしたいのなら、いても良いのよと言いたいところであったが、そこは人間生活の便宜上、薬で駆除してしまった。
ノミもネズミもいなくなった。
生活は次第に落ち着いてきた。渡豪 してすでに一年がたとうとしている。
この一年間、私の体験がつらくなかったといえば嘘になろう。しかし私の心の奥深く不思議な幸せを感じることが良くあった。
どこまでも続く青空に ゆったりと枝を伸ばす大樹。その枝から枝へと飛び交う小鳥達。 ガムトリーの枝に止まって歌うひょうきんなクカバラの声を聞きながら、私は確かに幸せを感じた。
広い海は、空とその青さを競い、波が飽くことなく打ち寄せる。 白い砂浜にたたずみながら、小さな小さな貝殻を集めながら、そこには確かに幸せの香りがした。
星を一杯に湛えた夜の空が プラネタリュームのようにドームをなしていることを私はこの国に来るまで知らなかった。
子供たちと南十字星を探しながら、私は確かに幸せを感じていた。
これは 老若を問わず、貧富を問わず、人種を超え、職業を超え、それを感じる心を失うことさえなければ、どんな人間にも平等に与えられる幸福感。 だから私はこれを原点に近い幸福という。
オーストラリアは原点に近い幸福のある国だと私は思う。
生活は日を追って安定した。
私は広野に出たときのようにどんな道をも選べる自由が出来た。 しかし自分の進むべき道を見出したわけでもなく、何の進歩も見えず、私は次第に焦りを覚え始めた。
その頃、亡き父の10周年を記念して集まった家族から電話があった。 一番上の姉をはじめとして 甥や姪など懐かしい声がつぎつぎに受話器を通して聞こえてくる。 もう苦しいこともつらいことも過ぎ去ったはずなのに、私は涙が出てならなかった。
同じ年で中学を出てからずっとともに暮らしたお手伝いのやっちゃんの声もする。
「やっちゃん、犬を飼ったからもうてんてこまいよ!」 と私が言うと、「とても遠くて手伝いにいけません」といって笑った。 子供が出来るたびに助けてくれたことを思い出す。
「何をめそめそしてるの。しっかりしなさい。」 最後に気丈な母の声。
「お母さん、私まだ自分の道が見つけられない。」 と私が言うと、「大丈夫 そのうちきっと見つかりますよ。」と言う。
「そうね、何を始めるのも遅すぎることはないわね。」
力強い母の言葉に励まされ 新たな闘志を胸に受話器を置いた。
私達のオーストラリア旅双六、いまだスタートを切ったばかり。 これからも”振り出しに戻る”や ”一回休み”などのこまが出ることだろう。 しかしどんな時にも焦ることなく、そして決してあきらめることなく、自分の精一杯で生きて行きたいと思っている。
最後に 渡豪以来、 常に私達を励まし、私達のために祈ってくださった日本の古き友に、またこの地にて常に暖かく接してくださったシドニーの新しい友に心からの感謝をささげたいと思う。
本当にありがとうございました。 (完)
この手記を書いてからおよそ--年の歳月が流れました。
私は未だに自分の道を見出していないし、アチーブしたものもありません。
アチーブしたのは孫の数だけーー!!!
自分探しの旅はこれからも続くということですね。
八代和子
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