今日マリアテレサの映画「テレサ」をDVDで見ました。
マリアテレサがどんな働きをしたかは知っていながら 終始、涙がポロポロ。 私は決して涙もろい性質ではないのですが、、
弱者、被抑圧者貧しい子供達のことは知るたびに胸の痛みを感じますが、私はテレサのようにはなれず、またテレサに従うような生き方も出来ません。ただ自分の無力を感じます。
1988年、オーストラリア建国の折、オーストラリアの原住民アボリジニーの反政府運動を支持するために世界から原住民が集まりました。 私は縁があってその運動に参加しましたが、その時もやはり自分の無力を感じました。
胸に痛みを覚えるが、私には何も出来ないという私の嘆きに インド人のラジールは
「何も出来なくていい。私たちのために胸を痛めてくれる人が一人でもいればいい。」と慰めてくれました。
私に出来ること、ひそかに祈ること。
「テレサ」の映画の中でも マザーテレサはイギリス人のアンナに「祈ってください。貴方の祈りが必要なのです」といっています。
世界の悲しみのために祈ることを 新たに思う一日でした。
2009年5月25日月曜日
Grandparents day
この国では保育園や学校で必ずGrandparents dayというのがあります。祖父母のための参観日なのです。子供とおじいちゃんおばあちゃんとの関係をとても大切にする国だと感じます。
今日は次男剛平の長男ノアちゃんの保育園のGarandparents dayで120Kmの距離をはるばる訪ねていきました。(おばあちゃん家業も大変!)
私の孫は八人ですが、子育ては母親の風習に習うようでノアちゃんもオーストラリア式の育児方で育っています。
オーストラリア式というのは子供をベビーの時から自分の部屋のベビーベッドで一人で寝かせる自立式。 添い寝をする娘の育児法とは全く違います。ノアちゃんも自立式で育ってしっかり者。
日本人である私はベビーからの自立ってかわいそうとつい思ってしまうのですが、、、。
以前、どちらの育児法がいいのかとと論議されているのを耳にしたことがありますが、本当にどちらが良いのでしょうね。
Skinshipでは添い寝をする日本式のほうが勝っているようなのですが、こちらでは大きくなってもいつまでも親子でチュッチュをしたりHugしたりでSkinshipが続きます。
八人の孫達がそれぞれの育児法でどんな風に育っていくのか楽しみです。
今日は次男剛平の長男ノアちゃんの保育園のGarandparents dayで120Kmの距離をはるばる訪ねていきました。(おばあちゃん家業も大変!)
私の孫は八人ですが、子育ては母親の風習に習うようでノアちゃんもオーストラリア式の育児方で育っています。
オーストラリア式というのは子供をベビーの時から自分の部屋のベビーベッドで一人で寝かせる自立式。 添い寝をする娘の育児法とは全く違います。ノアちゃんも自立式で育ってしっかり者。
日本人である私はベビーからの自立ってかわいそうとつい思ってしまうのですが、、、。
以前、どちらの育児法がいいのかとと論議されているのを耳にしたことがありますが、本当にどちらが良いのでしょうね。
Skinshipでは添い寝をする日本式のほうが勝っているようなのですが、こちらでは大きくなってもいつまでも親子でチュッチュをしたりHugしたりでSkinshipが続きます。
八人の孫達がそれぞれの育児法でどんな風に育っていくのか楽しみです。
2009年5月24日日曜日
2009年5月21日木曜日
エンジェル ルカ
私は娘と壁を隔てて隣同士の家に住んでいます。こちらではこのような家をDuplexといいます。
お隣同士というのは仲が良いときは良いのですが、一つ間違えて娘の機嫌が悪くなるとひどーくい心地の悪い状態になります。
そして娘は長男と仲が悪いので、私が長男と仲良くするととたんに機嫌が悪くなるという厄介な状態にあります。
今年の「母の日」はちょうどつむじを曲げた状態だったので悲惨でした。
こんなことで落ち込むなんてふがいない母なのですが、どうしようもなく暗くなってしまうのです。
娘の子供はホープちゃん13歳、ジョナちゃん7歳、ルカちゃん一歳と三人。 ホープちゃんとジョナちゃんはもういろんなことがわかってきているのであえて親に逆らうことはないのですが。。。一歳のルカちゃんは親の思惑などお構いなし、私にすごくなつきます。
私の顔を見れば(お隣同士なので顔も見えるのです)抱っこを要求、私の家に行きたいと指をさし、その上強烈な愛の表現チュッチュまでくれます。
ドドット落ち込んでいた私はマザースデースペシャルキスに感動!! まさに天ら下りてきたエンジェルです。
しかしこのルカちゃん、ヘビー級ベビーで64歳の身体は抱っこのし過ぎでがたがた。うれし~い悲鳴を上げているこのごろです。
お隣同士というのは仲が良いときは良いのですが、一つ間違えて娘の機嫌が悪くなるとひどーくい心地の悪い状態になります。
そして娘は長男と仲が悪いので、私が長男と仲良くするととたんに機嫌が悪くなるという厄介な状態にあります。
今年の「母の日」はちょうどつむじを曲げた状態だったので悲惨でした。
こんなことで落ち込むなんてふがいない母なのですが、どうしようもなく暗くなってしまうのです。
娘の子供はホープちゃん13歳、ジョナちゃん7歳、ルカちゃん一歳と三人。 ホープちゃんとジョナちゃんはもういろんなことがわかってきているのであえて親に逆らうことはないのですが。。。一歳のルカちゃんは親の思惑などお構いなし、私にすごくなつきます。
私の顔を見れば(お隣同士なので顔も見えるのです)抱っこを要求、私の家に行きたいと指をさし、その上強烈な愛の表現チュッチュまでくれます。
ドドット落ち込んでいた私はマザースデースペシャルキスに感動!! まさに天ら下りてきたエンジェルです。
しかしこのルカちゃん、ヘビー級ベビーで64歳の身体は抱っこのし過ぎでがたがた。うれし~い悲鳴を上げているこのごろです。
2009年5月17日日曜日
神様の心
私には三人の子供がいます。
長男聡平、次男剛平、長女恵です。
私が離婚をして一人になったせいか 私達は家族肩寄せ合って生きてきたのですが 聡平が結婚し嫁のリアンちゃんがどうも娘とうまくいかない。それはもう10年越しで、今では聡平家とめぐみ家の両家が仲たがいするようになりました。
母親としては本当につらいところです。
私は独り者のせいか長い間、娘とは姉妹か友達のように仲が良く 子育ても手伝ってきました。 孫は目の中に入れても痛くないほどに可愛いいのです。が。。。
娘は自分を嫌う嫁を受け入れる私に傷ついて 時に私に怒りをぶつけたり、氷のように冷たくなったりするのです。
99%の私の時間と労力と金銭を娘の家族に費やしていても 0.5%を長男の家族とともにすると激怒する。 そうなると可愛い孫にも思うように会えなくなる。
この一月ほども妙な感じでしたが、昨日夫婦でDine outすることになったのに三人の子供のお守りをしてくれる人がいない。夫ローウェンの母親は一時間お守りをしても一週間寝付いてしまうので無理なのです。 それで結局私に頼んできました。 もちろん私は引き受けました。 そんなことがあってどうやら娘の頑なな心が溶けてきたのか 今日は可愛い孫たちとも一緒に教会に行くことが出来ました。
他の人から見ると都合の良いときだけ近づいてくる娘に利用されて馬鹿な母親に見えるだろうと思いながら 私は喜んで利用されています。意気地なしのようですが母というのは我が子に意地を張ったりしないものです。 我が子が反抗したり離れたりすると悲しみ、また自分に戻ってくると喜ぶ。 そしてふと思いました。 ああ、神様ってこうなんだろうな。。と。 人間が反発し離れてしまうと悲しみ、また自分の都合の良いときに戻ってくるとそれでも喜んで迎えてくれるのです。
今日は神様の心が少し分かったようでうれしくなりました。
長男聡平、次男剛平、長女恵です。
私が離婚をして一人になったせいか 私達は家族肩寄せ合って生きてきたのですが 聡平が結婚し嫁のリアンちゃんがどうも娘とうまくいかない。それはもう10年越しで、今では聡平家とめぐみ家の両家が仲たがいするようになりました。
母親としては本当につらいところです。
私は独り者のせいか長い間、娘とは姉妹か友達のように仲が良く 子育ても手伝ってきました。 孫は目の中に入れても痛くないほどに可愛いいのです。が。。。
娘は自分を嫌う嫁を受け入れる私に傷ついて 時に私に怒りをぶつけたり、氷のように冷たくなったりするのです。
99%の私の時間と労力と金銭を娘の家族に費やしていても 0.5%を長男の家族とともにすると激怒する。 そうなると可愛い孫にも思うように会えなくなる。
この一月ほども妙な感じでしたが、昨日夫婦でDine outすることになったのに三人の子供のお守りをしてくれる人がいない。夫ローウェンの母親は一時間お守りをしても一週間寝付いてしまうので無理なのです。 それで結局私に頼んできました。 もちろん私は引き受けました。 そんなことがあってどうやら娘の頑なな心が溶けてきたのか 今日は可愛い孫たちとも一緒に教会に行くことが出来ました。
他の人から見ると都合の良いときだけ近づいてくる娘に利用されて馬鹿な母親に見えるだろうと思いながら 私は喜んで利用されています。意気地なしのようですが母というのは我が子に意地を張ったりしないものです。 我が子が反抗したり離れたりすると悲しみ、また自分に戻ってくると喜ぶ。 そしてふと思いました。 ああ、神様ってこうなんだろうな。。と。 人間が反発し離れてしまうと悲しみ、また自分の都合の良いときに戻ってくるとそれでも喜んで迎えてくれるのです。
今日は神様の心が少し分かったようでうれしくなりました。
2009年5月7日木曜日
ブリスベンの旅


5月4日 ブリスベンに行くことになりました。
30年もオーストラリアに住みながら 私はシドニー以外のどこにもほとんど旅していません。
もともと末っ子で依頼心が強く、一人旅が苦手でした。 それで早々とシングルになってしまった私は旅のチャンスをうしなったのです。
朝10時半タクシーを呼んで空港へ。
最近には珍しく親切な運転手さん。
「このごろは親切な運転手さんが少なくなったわ」と私は運転手さんに話し始めました。
金融危機以降商売はどう?と聞くと少し落ちたけどたいしたことはないよ、との返事。
それからそもそもアメリカが悪いと独断場の演説が始まりました。
知ってること知ってること。
ブッシュの時代のアメリカの議席、ハワードの時代のオーストラリアの議席、ブレヤーの時代の英国の議席等など。
「あなたはどこの国からきたの」 どこから見ても白人ではない容貌。
「レバノンだよ」
「何年になるの」
「37年さ」
「ウワーあなた私をビートしたわ。私30年」.
「そうか自分のほうが7年長いな」
「レバノンってどんな国?」
「美しくてすばらしい国だよ」 この答え、意外でした。
レバノンって中近東で荒地のようで政治も安定していないと思っていたのです。
「私は馬鹿だったの30年も住んでて日本ばっかり見つめていたから オーストラリアのことあまり知らない」.
「それは馬鹿じゃないよ」と運転手君。
「日本はあなたの第一番目の国だからね、愛するのが当然だ。自分の母国を愛することのできないやつにはほかの国を愛することなんかできないよ」
このような見解を私は「国家の品格」で読んだばかり。
政治のことよく知ってるのね。
「それは見たり、聞いたり。僕は学校には一年しか行ってないけどね」
どういう意味かしら。。一年しか学校いっていないなんて。。。と思っていたら、
「8歳のとき一年行って9歳から働いたんだ」
「ええ、。本当? 」
義務教育ではなかったのと聞こうと思いましたがやめました。 義務教育で在ろうとなかろうと彼は9歳から働かねばならなかったのです。
「9歳で何ができたの?」
「洋服屋の小僧さ」
目頭が熱くなりました。 9歳からずっと働いてきたライフ。
「19歳でこの国に来た」
「ずっとタクシーの運転してるの?」
「いや はじめは英語をまったく知らなかったから三ヶ月は仕事はなかった。.
それから鉄工所の労働者として働いた」
「学校行かないでどうやって英語勉強したの?英語読めるの?」
「知らない言葉があるとメモ帳に書いて意味を聞いてそれを毎日使って また新しい言葉を手帳に書いて。 毎日毎日覚えたよ」
私は心底自分を恥じました。
自分の英語が上達しないのは センスがない、音楽性がないなどいいわけばかり思いついて。30年間 本当に習得してこなかったのです。
「私今からがんばるわ」
「そうさそうさ。 今からいくらでもがんばれる」
車は空港に着きました。
「今日あなたと会えて最高の教訓を得たわ。ありがとう」
私は運転手君と握手をして車を降りました。
在豪30年で ちっとも英語が上達しなかったと嘆くより 今日からたった一つでも新しい言葉を覚えよう。
頑張るーーの決意で機上の人となりブリスベンへ向かいました。
ブリスベンの空港に着くと手配していたタクシーの運転手さんが待っていました。
シドニーの空港から一緒に乗った長男聡平の家族は子供が三人なので大変な荷物でした。タクシーの運転手さんはこまつきスーツケースを2個がらがらところがしながら車まで向かいました。 聡平は乳母車と大きな思い荷物を三個も身体中にかついで歩き始めました。
ちょっとあれは不公平じゃない。おじさんにひとつくらい持ってもらったら。こまつきなら私でも運べるのに。。と私はあれこれぶつぶつ言ったのですが、誰も気にかけてくれません。
そうね あれが聡平の性格だからね、と私も肩がつぶれそうな聡平の後姿を見ながらいいました。
思い起こせば ずっと昔子供たちが小さいころ、旅先の駅で赤坊さんを雇った元の夫、中川は思い荷物を6個身体の小さな赤坊さんに持たせて本人は何も持ちません。 一つ持ってあげたら。。?という私の声はむなしく駅の人ごみに消えるばかり。 それは私がどうしてもついていけない中川の人となりのひとつでした。
大きな荷物をしょってつぶれそうな息子の後姿を見て 私はこれを喜ぶべきなのだなと思うのでした。
5月5日
今回私が子守をおおせつかったという会議はオーストラリア外科医の会議で一年に一度開かれます。 長男は2005年にスペシャリストの試験に合格して外科医となったのですが、いろんな事情でなかなか出席できず 今回やっと免許の授与式に参列したのです。 そのセレモニーは夫婦同伴で三人の子供の子守を頼まれたわけです。
ここでこの国の医療制度を少し説明しましょう。
大学の医学科を卒業すると卒業生はみんなどこかの病院のインターンになります。 一年のインターンを終えGPになるか専門医になるかを選択します。 (日本のように大学在学中に進路を決めてしまいません) 専門医を志すことになるとそれぞれの分野のPrimary Examを受けます。
それに 通ると病院で働きながらでトレ-ニングプログラム訓練が始まります。 最低四年間の訓練を受けます。 そして最後に資格を取る試験を受けるのですが、それが二つの筆記試験と手術、病理などの口頭試験のほかに二つの臨床試験を受けて合否が確定します。
この専門医とは具体的にどういうものかというとすべての病人はみんなまずGPで診察を受け、それぞれの専門に紹介されます。患者が紹介状を持って診察を受けるのが専門医なのです。
聰平は一般外科医です。小さいときから漫画ブラックジャックにあこがれて外科医を夢見てきましたがその夢が実現したのです。
そしてすでにもうすでに四年も経過しているのですが晴れて今日、その授与式に参列したわけです。
怠け者の聡平がこの厳しい道を頑張りぬいたのはなんといっても妻リアンちゃんの強いサポートがあってのことでしょう。 感謝です。
いやあ、それにしても5歳を頭に3歳、11ヶ月の孫のお守りは大変でした!!!!
30年もオーストラリアに住みながら 私はシドニー以外のどこにもほとんど旅していません。
もともと末っ子で依頼心が強く、一人旅が苦手でした。 それで早々とシングルになってしまった私は旅のチャンスをうしなったのです。
朝10時半タクシーを呼んで空港へ。
最近には珍しく親切な運転手さん。
「このごろは親切な運転手さんが少なくなったわ」と私は運転手さんに話し始めました。
金融危機以降商売はどう?と聞くと少し落ちたけどたいしたことはないよ、との返事。
それからそもそもアメリカが悪いと独断場の演説が始まりました。
知ってること知ってること。
ブッシュの時代のアメリカの議席、ハワードの時代のオーストラリアの議席、ブレヤーの時代の英国の議席等など。
「あなたはどこの国からきたの」 どこから見ても白人ではない容貌。
「レバノンだよ」
「何年になるの」
「37年さ」
「ウワーあなた私をビートしたわ。私30年」.
「そうか自分のほうが7年長いな」
「レバノンってどんな国?」
「美しくてすばらしい国だよ」 この答え、意外でした。
レバノンって中近東で荒地のようで政治も安定していないと思っていたのです。
「私は馬鹿だったの30年も住んでて日本ばっかり見つめていたから オーストラリアのことあまり知らない」.
「それは馬鹿じゃないよ」と運転手君。
「日本はあなたの第一番目の国だからね、愛するのが当然だ。自分の母国を愛することのできないやつにはほかの国を愛することなんかできないよ」
このような見解を私は「国家の品格」で読んだばかり。
政治のことよく知ってるのね。
「それは見たり、聞いたり。僕は学校には一年しか行ってないけどね」
どういう意味かしら。。一年しか学校いっていないなんて。。。と思っていたら、
「8歳のとき一年行って9歳から働いたんだ」
「ええ、。本当? 」
義務教育ではなかったのと聞こうと思いましたがやめました。 義務教育で在ろうとなかろうと彼は9歳から働かねばならなかったのです。
「9歳で何ができたの?」
「洋服屋の小僧さ」
目頭が熱くなりました。 9歳からずっと働いてきたライフ。
「19歳でこの国に来た」
「ずっとタクシーの運転してるの?」
「いや はじめは英語をまったく知らなかったから三ヶ月は仕事はなかった。.
それから鉄工所の労働者として働いた」
「学校行かないでどうやって英語勉強したの?英語読めるの?」
「知らない言葉があるとメモ帳に書いて意味を聞いてそれを毎日使って また新しい言葉を手帳に書いて。 毎日毎日覚えたよ」
私は心底自分を恥じました。
自分の英語が上達しないのは センスがない、音楽性がないなどいいわけばかり思いついて。30年間 本当に習得してこなかったのです。
「私今からがんばるわ」
「そうさそうさ。 今からいくらでもがんばれる」
車は空港に着きました。
「今日あなたと会えて最高の教訓を得たわ。ありがとう」
私は運転手君と握手をして車を降りました。
在豪30年で ちっとも英語が上達しなかったと嘆くより 今日からたった一つでも新しい言葉を覚えよう。
頑張るーーの決意で機上の人となりブリスベンへ向かいました。
ブリスベンの空港に着くと手配していたタクシーの運転手さんが待っていました。
シドニーの空港から一緒に乗った長男聡平の家族は子供が三人なので大変な荷物でした。タクシーの運転手さんはこまつきスーツケースを2個がらがらところがしながら車まで向かいました。 聡平は乳母車と大きな思い荷物を三個も身体中にかついで歩き始めました。
ちょっとあれは不公平じゃない。おじさんにひとつくらい持ってもらったら。こまつきなら私でも運べるのに。。と私はあれこれぶつぶつ言ったのですが、誰も気にかけてくれません。
そうね あれが聡平の性格だからね、と私も肩がつぶれそうな聡平の後姿を見ながらいいました。
思い起こせば ずっと昔子供たちが小さいころ、旅先の駅で赤坊さんを雇った元の夫、中川は思い荷物を6個身体の小さな赤坊さんに持たせて本人は何も持ちません。 一つ持ってあげたら。。?という私の声はむなしく駅の人ごみに消えるばかり。 それは私がどうしてもついていけない中川の人となりのひとつでした。
大きな荷物をしょってつぶれそうな息子の後姿を見て 私はこれを喜ぶべきなのだなと思うのでした。
5月5日
今回私が子守をおおせつかったという会議はオーストラリア外科医の会議で一年に一度開かれます。 長男は2005年にスペシャリストの試験に合格して外科医となったのですが、いろんな事情でなかなか出席できず 今回やっと免許の授与式に参列したのです。 そのセレモニーは夫婦同伴で三人の子供の子守を頼まれたわけです。
ここでこの国の医療制度を少し説明しましょう。
大学の医学科を卒業すると卒業生はみんなどこかの病院のインターンになります。 一年のインターンを終えGPになるか専門医になるかを選択します。 (日本のように大学在学中に進路を決めてしまいません) 専門医を志すことになるとそれぞれの分野のPrimary Examを受けます。
それに 通ると病院で働きながらでトレ-ニングプログラム訓練が始まります。 最低四年間の訓練を受けます。 そして最後に資格を取る試験を受けるのですが、それが二つの筆記試験と手術、病理などの口頭試験のほかに二つの臨床試験を受けて合否が確定します。
この専門医とは具体的にどういうものかというとすべての病人はみんなまずGPで診察を受け、それぞれの専門に紹介されます。患者が紹介状を持って診察を受けるのが専門医なのです。
聰平は一般外科医です。小さいときから漫画ブラックジャックにあこがれて外科医を夢見てきましたがその夢が実現したのです。
そしてすでにもうすでに四年も経過しているのですが晴れて今日、その授与式に参列したわけです。
怠け者の聡平がこの厳しい道を頑張りぬいたのはなんといっても妻リアンちゃんの強いサポートがあってのことでしょう。 感謝です。
いやあ、それにしても5歳を頭に3歳、11ヶ月の孫のお守りは大変でした!!!!
2009年5月2日土曜日
渡豪 30年記念日
1979年5月2日、私達は初めてオーストラリアの土を踏みました。
あれから 30年、歳月が夢のように過ぎていきました。
今日は私達のオーストラリア移住、30周年の記念日なのです。
30年前シドニーの空は薄暗く雲が立ち込めていたのに、今朝は快晴、青い空がどこまでも続き、陽が輝いています。
私達が突然オーストラリア移住を宣言した時、周りの人は驚きました。中には止める人もいました。 でも突っ走りました。
日本を出るとき、兄が「半年くらいで帰ってくるんじゃないの。」といって見送りました。
私も内心「フフ、、そうかもしれない。」と思いました。
でもとうとう今日まで歩いてきました。
思えば、30年のオーストラリアのライフは茨だらけのでこぼこ道でした。
私はうれしい時も悲しい時も、苦しい時も楽しい時も ずっと日本に向かって語り続けてきたように思います。 それは特定の誰かに向かってではなく、祖国日本に向かってでした。 私の心はいつも日本を見つめていました。
いつの間にか三人の子供達は成人し、それぞれ伴侶に出会い、孫は八人になりました。 私の意志とは関係なく私の根はこの地に伸びていたのです。
今は日本を訪ねることは容易になりました。 でも日本に帰り住むことはほぼ不可能になりました。この大地に伸びた根を引っこ抜くことは出来ないからです。
2009年5月2日、渡豪30年のこの日、私は日本を見つめる心をブログにすることにしました。
そしてこれから祖国日本に向かって語り続けて行こうと思っています。
八代和子
あれから 30年、歳月が夢のように過ぎていきました。
今日は私達のオーストラリア移住、30周年の記念日なのです。
30年前シドニーの空は薄暗く雲が立ち込めていたのに、今朝は快晴、青い空がどこまでも続き、陽が輝いています。
私達が突然オーストラリア移住を宣言した時、周りの人は驚きました。中には止める人もいました。 でも突っ走りました。
日本を出るとき、兄が「半年くらいで帰ってくるんじゃないの。」といって見送りました。
私も内心「フフ、、そうかもしれない。」と思いました。
でもとうとう今日まで歩いてきました。
思えば、30年のオーストラリアのライフは茨だらけのでこぼこ道でした。
私はうれしい時も悲しい時も、苦しい時も楽しい時も ずっと日本に向かって語り続けてきたように思います。 それは特定の誰かに向かってではなく、祖国日本に向かってでした。 私の心はいつも日本を見つめていました。
いつの間にか三人の子供達は成人し、それぞれ伴侶に出会い、孫は八人になりました。 私の意志とは関係なく私の根はこの地に伸びていたのです。
今は日本を訪ねることは容易になりました。 でも日本に帰り住むことはほぼ不可能になりました。この大地に伸びた根を引っこ抜くことは出来ないからです。
2009年5月2日、渡豪30年のこの日、私は日本を見つめる心をブログにすることにしました。
そしてこれから祖国日本に向かって語り続けて行こうと思っています。
八代和子
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